仏教のはなし

仏教と日本仏教

ブータン国王が来日されているとのことだけれど、ちょうどNHKブックスの『ブータン仏教から見た日本仏教』今枝由郎 を読んでいた。

浄土真宗の檀家の息子として生まれ、大谷大学で東洋哲学を学んだ後、「もっと仏教の本質に近づきたい」と、気がつけばフランス、ブータンで研究暮らしをすることになった著者の、仏教と日本仏教観。

日本仏教が釈迦が始めた仏教とはだいぶ違うものであるということに限らず、「宗教」「信仰」「日本人」等々、普段当たり前と思っていたことが実は日本独特のことなのねと、再認識できる内容だった。

日本仏教の独自性を著者は次のように記している。

・日本語訳のお経を持っていない

日本のお経はみな漢訳のままであること。菩提にしても、菩薩にしても、サンスクリット 語の音写である。言葉の意味がわからずに、ただ感じの音と字面だけに頼ってきた日本人の仏教理解には危うさが伴っている(P97)

・経典を取捨選択している

仏教の膨大な経典の中の一つのお経を選び、その中に記されている修行の中から一つを選んでそれに専念している

・仏教徒としての意識は希薄で、宗派意識のほうが強い

・戒律と僧伽がない

そもそも仏教は、ブッダの教えを記した「経蔵」と、出家者が守らなければならない戒律を集めた「律蔵」、それらの注釈書である「論蔵」から構成されている。しかし、日本の仏教は「経蔵」が取捨選択されているうえに、戒律がない。

戒律を守るため、出家者は僧院での集団生活を営むものだが(僧伽)、守るべき戒律がないので(笑)、集団生活を営む必要もなく、家庭生活を送っているのが、日本の僧侶である。

・一般仏教徒に仏教徒としての自覚がない

キリスト教にしてもイスラム教にしても、日本以外の仏教にしてもそうだけど、「わたしはこれを信仰しよう」という選択があって、その宗教の教えを守るわけなんだけど、日本人の場合、成り行きで(笑)、死ぬ時はお経上げてもらって、戒名もらって、お墓に入るのよねー。

・お墓があるのは仏教国では日本だけ。回忌法要を行うのも日本だけである

「回忌法要は、先祖崇拝という背景から生まれた日本仏教特有のもので、仏教本来のものでない」(P117)

仏教の考え方には科学的な面でも大いに共通する面があるっていうことで、ダライ・ラマ法王が欧米の著名な科学者との対話を繰り返しているっていうような話もあって、

仏教それ自体は21世紀でも通用するぐらい深い思想であるはずなのに、どうも日本仏教はそれについていけてない感じがする。

続きを読む "仏教と日本仏教"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

残りの50%

震災直後のショックもだんだんに薄れてきて、ふと我に返る感じの日々…のように思う。

政治のドタバタは、「ああ、やっぱりそうか」的な、それこそ(残念ながら)「想定内」のへたれ加減だから、まあ、いろんな人がそれぞれのお立場で、わいわいやってりゃいい。と思う。

気になるのは、むしろ。

最愛のこどもを2人も失っちゃった若い夫婦。

目の前でクラスメイトが流された小学生。

テレビのインタビューに答えて、「生き残った僕たちは、亡くなった人たちの分までがんばって生きなくちゃいけないんだ」って一生懸命言ってたけど、

えええ? そうなの?

と、正直思う。

たぶん、そういう気持ちがものすごく強まっている気がするんだけれど、それは重すぎる。

大好きな人を亡くした喪失感だってまだまだ癒えてないだろうに、どうして、「前向きなコメント」を? 期待しているのは誰?

日本は苦難を乗り越えてきた。だから今度もきっと立ち直る。って、わかるけど。

そんな「神話」、もういいって。

・・・・・・・・・・・・・・・・

あの日から●●さんたちの時計の針は止まったまま。

こどもを突然亡くした親の話が紹介されるとき、決まり言葉のように言われるフレーズだ。

となると、「時計の針が止まったまま」の人が、実はものすごくたくさん、この日本にいるんだろう…と思う。

その人たちは、いったい今何をしているんだろう?

自分のこの悲しみとどう付き合っているんだろう? 

考えてみれば、小説でも物語でも、愛する人を失った人の喪失感と癒しの話が世の中にはごまんとある。

正直言って、老化対策や美肌や就活より、切実な気がするんだけど、話題にはのぼらない。

それだけ、話題にしにくい話なのかもしれないけれど。でも、それだけに「切実」だとも思うのだけど。

心の傷の「癒し方」はまだ十分わかっていないんじゃないか? それどころか、「癒し方が十分わかってない」ということさえ、理解されていないんじゃないだろうか?

ってなことを、つらつらと考えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・

ですから、今生だけにかぎられた出来事に百パーセントかかわってしあうのは危険です。

四六時中、来生に役立つことのみに没頭しているのも非現実的ですが、

自分のエネルギーのうち50パーセントを今生の俗事にふり向け、

残りの50パーセントをより深遠な事柄にふり向けるのはけっこうなことです(ダライラマ『愛と非暴力』春秋社)

ダライラマ法王は仏教の教えを通して、生きていくうえで誰もが遭遇する「苦しみ」の取り除き方について説法してくれるのだけど、

医学書を読んだだけで
病人を救えようか

という先人の教えを紹介しながら、仏法もまたそれが説かれているのをただ聞くのはたやすいけれど、それを実行にうつすのは難しいと、説く。

そこが、日本の書物との違いかなと思う。読んで、理解して終わり、じゃないのよね。

「いかす」ってこと、「いかす」ってのはどういうことなんだろう?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

続きを読む "残りの50%"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

心を訓練する八つの詩頌

過去に行った行為を知りたいならば、現在の己れの身体を見よ。将来、己れにふりかかることを知りたいならば、現在の己れの心の中を見よ。

私たちの現在の状況や身体は過去の行為によって形成され、将来の幸福や苦は、現在の私たちの手中にあるというのが仏教の行為と果報の考え方です。(ダライ・ラマ『愛と非暴力』P140)

知性(サットバ、覚)とプルシャ(あるいはアートマン)はまったく別ものであり、知性がプル者のために存在するのに対して、プルシャはそれ自身のために存在する。これを峻別しないところに経験のすべてがあるのであって、この区別にサンヤマを行うことによって、プルシャの知があらわれる。(P300 スワミ・サッチダーナンダ『インテグラル・ヨーガ』)

テレビを見たり、雑誌を読んだり、頭のいい人たちの言っていることをどれだけたくさん聞いても、今のわたしがほしいと思っている情報は得られないような気がしている。

たぶん、それは、ダライ・ラマ法王が般若心経という短いお経に何が書いてあるかを解説した本を読んだ時からのような気がする。

「あああ、やっぱり」みたいな。

般若心経には、周知の通り、最後に「ギャティ ギャティ ハラギャティ ハラソウギャティ ボージーソワカ」というマントラがあるのだけど、

それは、空性の意味を段階を踏んで修行することによって、開ける世界であるというわけだ(P128 ダライ・ラマ同書)

「単に本を読んだからって、習得できるわけじゃないのねー!」

本質をとらえた短い短いことばを解釈し、考え、実践するだけで一生を終えてしまう人も多いのだ。

知識とは読んだ本の多さとか、取り入れた知識の多さとか、人と比べてどうだとか、そういうことではないような気がする。

欧米など西洋から手に入れる知識は、ものすごく一般的で、親切で、読めばわかる、マニュアル的な、ハウツー的な要素が大きい。

で、その通りやっていくと、それなりになれるし、一般社会に適応できる人になれる。

というか、そういう社会をあらかじめ設定してるので、その型に入る人にするべく教育が施されるというわけだ。

もちろん、そのおかげで恩恵をたくさん受けたのは間違いないし、こういうときはこうすればいいんだよな、とわずかながらもある経験知で、次の方策を考えることもできる。

でもそれは、いってみれば思考のパターンの一つでしかない気がする。

ヨーガについては、チベット仏教の関係で手に入れて読んだりしているのだけど、ある意味、すごく「不親切」!ヨーガに極めた人から見れば、かなり読みやすいのに!って言われそうですが。

やっぱり、ものごとのとらえ方、考え方が違うってことなんでしょうね。

で、今のわたしに必要なのは、そっちのような気がする。

・・・・・・・・・・・・・・・・

「ダライ・ラマ 愛と非暴力」より

心を訓練する八つの詩頌 

続きを読む "心を訓練する八つの詩頌"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

母親が死ぬということ

長期の入院を2回もすると、3回目はもしかするともう自宅に帰れないかもしれない…という思いを、否応なく持ってしまうものだ。

大好きな萩尾望都さんの最近のマンガ「ここではないどこか」シリーズの3巻収録の「春の小川」も、そうした死んだ母と息子の話で、何度読んでも泣けてしまう(ちなみに1巻の最後の話もそういう感じ)。

余談だけど、一方で、コンプレックスいっぱいの女の子が好きな男の子の前でどぎまぎしてしまう話などが混ざっていて、

長年、第一線でなんでも描いてきた巨匠が、いよいよ円熟期を迎え、なんでもできる軽いタッチで、いろいろなお話をモザイク螺旋のように組み合わせて、

空間も時空すらこえて、縦横無尽に物語ワールドを展開させているのを見せてくれているようだ。

「はあー、プロってすげー!」と、ありがたく楽しませていただいています。

で、「母親の死」について。

数年前、息子の高校の卒業式で、同級生のほとんどが浪人という進路が決まっている状態で、まあ、母たちは華やかな格好はしているものの、内心複雑な思いで彼らを見送った。

その中で小学校時代からずっと同じようにやってきた仲良しの某くんのママが、

「××くんのお母さん、彼が受験中に病気亡くなって。彼はお母さんのために、医学部に進学したのよね。だからわたし息子に言っちゃった。わたしが死んだら医学部、入ってくれる?って」

母の死が契機で、悲しみを乗り越えて、医学部にいくなり、進路が明確になり、こどもが「ダン!」と成長する話はわたしの周囲でもこれにとどまらず、いくつか聞いている。

××くんのママじゃないけど、自分が死がそういう重い価値を持つものになるのなら、すばらしいなと、思う。そういうことになるなら、死ぬのも悪くないなと思う。

そう。だらだらと生きて、いつもこどもに甘くなっちゃって、こどももいつまでも甘ったれで、ダメなのはお互いわかっているのに、どうにもならずにずるずる年ばかり重ねてしまうよりは、ずっと。

・・・・・・・

続きを読む "母親が死ぬということ"

| | コメント (3) | トラックバック (0)

仏教について考えてみる

護国寺で行われたというダライ・ラマ法王の大震災の慰霊の法要は、できれば行きたかった。

が、家族の許可が下りず、断念。仕方なく、紹介されていた「地神と四大(この世界を構成する4つの元素)の女神に対する供養文(sa bdag 'byung bzhi'i lha mor gsol mchod)」をプリントアウトして毎朝読みあげ、「もうこれ以上恐いことしないでね」と、女神さまにお願いしている。

http://www.tibethouse.jp/news_release/2011/110405_sa-bdag-byung-bzhii-lha-mor-gsol-mchod.html

彼岸寺という「超宗派仏教徒によるインターネット寺院」に、当日の模様が紹介されていたので、紹介します。

http://www.higan.net/news/2011/05/post-9.html

同じ記事ですが、こちらはきれいな写真付き。

http://www.hasedera.net/blog/2011/04/post_275.html#more

直接大変な被害を受けたわけではないけれど、ぐらぐら揺れた時、わたしは入院していたこともあって、地震後の数日はニュースを見ては泣いてばかりいた。

わたしをはじめ多くの人は「応援する側」「義捐金を送る側」であるのだけど、だからといってまったく傷ついてないかというと、それは違うような気がする。

地震のあった日も、電車が止まってしまい、家まで歩いて帰った人が何人もいたというし、被害の大きさを映像で見て、平気な人は少ないと思う。

グローバル規模で見れば、「日本が被災した」と言われるわけで、他国がお悔やみを述べ、応援してくれるのを見て、ありがたいなと思うのは「被災した国」の人だからだ。

法王様が日程を調整して無理して護国寺に来られると聞き、行きたかったのは、

「いっしょに東北の方たちを励ましたい。慰霊したい」という純粋な気持ちというよりは、

「わたしも励ましてもらいたい。お話を聴いて、魂を癒したい」という気持ちのほうが強かったと、正直に言おう。

私たち仏教徒には、何らかの逆境に立たされた場合、その逆境に立ったというその状況を、自分が悟りにいたるための道の一つとする修行の方法があります。ひどい逆境という困難は「もうすでに起きてしまった」わけですから、それを無くすことはできないのです。ですから、悲しいことが起こったと、ただ悲しんで心配するだけでは何の役にも立ちません。このことについて、

シャーンティデーヴァ(漢訳名=寂天)は『入菩薩行論』の中で、このように述べています。

もし何事かが起きて、それを何とかする方法があるならば、その方法・対策を講じる努力をするべきである。そしてそれを何とかする方法が無いのであるならば、それより悲しむ必要はないのである

このシャーンティデーヴァの教え、アドバイスは非常に科学的、現実的で毎日の日常生活に即した教えとなっていると私は思います。ですから、皆さま方もそのように考えていただきたいと思います。起きてしまったことはもう取り返しがつかないのです。しかしながら、落胆し、全く勇気をなくしてしまうというのではなく、「これから先」を見つめて、再建・復興のために出来る限りの努力をしていっていただきたいのです。

・・・・・・・・・・・・・・・

私たちは、チベットという自分の国を失って以来、たくさんの困難な状況に直面してきました。
しかしながら、私たちは、そのような困難な状況の中において、自分自身の精神というものをますます高めてくることが出来たのではないかと思います。そのような困難な時代を過ごす中で、自分の内なる心の力というものを、より強く高めることが出来てきたのではないかと思うのです。

ですから、(被災された)皆さま方は、非常に困難な状況に直面しておられますが、そのような悲劇に打ち負かされることなく、現実の状況を正しく理解するということによって、自分自身の状況への対処の仕方をより強めていってほしいのです。それによって、皆さま方の心の内なる力というものをますます高めていくことが出来ると思います。

心の内なる力をますます高める・・・それをするには、どうしたらいいんだろう?と、思う次第。

多分、困難な状況に直面したら内なる力が高まるのではなく、困難な状況下において行うことの結果、精神を高めることができるのだと思う。

では、何をしたらいい?

続きを読む "仏教について考えてみる"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

十二支縁起

「ダライ・ラマの仏教入門」から、覚書

110427_093850

輪廻の現象として、十二の縁起が起こる。

1)無明(無知) 輪廻の根本原因。無知には「生来の無知」と「学問によって獲得された無知」の二種類がある。

原因と条件によって生じたにすぎない事物を 真実に存在するものであると執着する意識は

仏陀によって無知と呼ばれている。

その無知から縁起の十二支が生じるのである。

2)行(行為) 無知によって「行為」が生じる。行為は苦しみや楽しみといった効果を生むので「形成力」とも呼ばれ、壺作りによって象徴される。

行為は目の前にすぐの結果を生み、未来における楽しい経験や苦しい経験をもたらす潜在力をも作りだす。

3)識(意識) 行によって生じた意識。潜在力。

4)名色(名称と色形) 行為が消滅して潜在力となり、新しい何かを生み出すまでの短い期間が「識」。

受胎した胚が五官を生ずる段階。名は、感覚(感)、知覚・表象作用(想)、行為(行)、意識(識)を指し、色は体を構成する集まりを指す。

5)六処(眼、耳、鼻、舌、身、意という感覚の成立する6つの場)

6)触(接触) 対象と感覚器官と意識が結合した際に生じる心の働き。

続きを読む "十二支縁起"

| | コメント (0) | トラックバック (0)