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2012年2月

AでもBでもないものは

AでもBでもないものを「第3の道」とか言って、わたしたちはすぐに名前をつけたがるけど、

それってあまり意味ないなと、思った。

昨日、小野リサさんが自身の原点をさがしに、ポルトガルのファドを体験するというBSの番組「旅のチカラ」を見た。

感情をそのままに、哀愁たっぷりに歌うファドと、

哀しいことも淡々と笑顔で歌うことで悲しみをより伝える、自分の持ち味であるボサノバの違いに戸惑う小野さん。

ファドは確かに好きだけど、ちょっと濃いなと思っていたので、なぜファドなのか、ポルトガル人の国民性などもちょっと垣間見れておもしろかった。

「ボサノバ禅」ということばがあって、常に歌い手はニュートラルでいよ的な仏教に通じる部分があるっていう話も初めてだったのでなるほど、だった。

感情をストレートに表現するのがいいのか、気持ちを殺すことで表現するのがいいのか。

あるいはこれって西洋的なアプローチか東洋的(ブラジルですが)アプローチか、どっちがいいのかってことにも通じるなと思って成り行きを見守った。

現地でいろいろなものと人に触れ、小野リサが歌うファド。

わたしは、ホテルとおぼしき部屋で、ギター片手に歌ったファド「かもめ」が、「おっ」と思った。

プロアマの飛び入りOKのお店で、マイクなしで、初対面のギタリストとぶっつけ本番で歌った「かもめ」よりも。

あれはちょっと、かわいそうだった。

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ゆるゆるをめざして

ちょっと前、災害や復興に関する国の重大な会議の議事録がなかったという話が伝わったとき、つくづくと、日本はおわったなーと感じた。

そして、何度となく参加させてもらった国の審議会のことを思い出した。

官僚って、資料作りと会議運営と議事録作りが自分たちの仕事だと思ってるんじゃないかと、思うぐらい、すばらしいパワポの資料と、ワードの議事録メモと本文を、作る人たちだ。

もちろん、自分たちが作った完璧なレールの上を予定通り進みたいから、こんな面倒をするわけで、

完璧であればあるほど、会議は彼らの術中にはまり、都合の悪いテーマを取り上げることは、難しくなる。

そういうのはわかっていつつ、わたしは毎回、事務方の作る資料のクオリティの高さにうっとりしていた。

日本一の知が本気出して作るものだもの、当たり前だよね。

もちろん会議も、メンバーがよければ超おもしろいし、いわば知的刺激を満足させる最高の場所であった。と、今となってはよくわかる。

蚊帳の外の野党だった民主党が、官僚主導を憎む理由もわかる気がする。

といいつつ、あれは個人的には楽しかったが、あれだけやってても国は回らない、というのも今は分かる。

人が集まって自分の思いを語る、伝える、話し合う会議や打ち合わせは、この世にごまんとある。

そうした場から何かが生まれ、大きなうねりをつくっていくことも多々あるのだ。そうした雑多な人々の、わけわかんない交流? 大事。

そのなかに、国の会議ほどの品質の会議が資料があるだろうか。そもそも議事録のある会議が、

いったいどれくらいあるのかって、話だ。

そんなもんだし、それでいいのだ。人間のやることは、多分、いい加減で、やりっぱなしで、議事録何か、つけんなよのものなのだと思う。

もちろん、議事録がない国の会議なんて、仕事放棄と同じだから、あの業界については、やるべきことをちゃんとやってから、重大な政策決定をやってよね、とは思うけれど、

世間一般、世の中的には、

言った言わない、感情的な発言のもろもろ、深い洞察の識者の一言と主婦の思いつき発言が、同等の重みで扱われるわけなのだ。

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「平清盛」

「高齢化社会」だと何の気なしに耳にしているけれど、それって、人がたくさん死ぬ「多死社会」ってことなんだよなあー、と、今さらながらに気がついた。

山ピーが葬儀屋さんになるドラマがつくられるほどだもの、ぼちぼちと、我が日本も、死に対する拒否や否定が薄らいで、

普通のことになっていくんじゃないだろうかと、思う。

・・・・・・・・

高度経済成長下に生まれ、成長しかしらないまま大人になったわたしは、衰退のシナリオを

思い描くことが、恐くてできない。

地球には限りがあること、トップランナーでがっつくより、ちょうどいい位置をキープする生き方でいいじゃないかと、頭でわかっていても、

息子をはじめとする若い世代の人たちの、彼らのせいではない、しなくていい苦労を思うと、

ため息が出るのだ。ほんと、ごめんね。貯金食いつぶしてる感じだなあ。

目下の政治や経済のドタバタをみても、あまりいいことはなさそうで、なので、「昔の話」にすがって、

昔の人だって、過酷な現状を乗り越えてきたよね、と、励みにしようとしたりしている。

で、大河ドラマ「平清盛」。

早くから梁塵秘抄をチェックし、「遊びをせんとや生まれけん」をうたっていた身としては、

今回のドラマは相当ごきげんで、鑑賞させてもらってます。

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羊飼いの詩人

あるテレビ番組で紹介されていた、イタリアの羊飼いの若者。

羊を追いながら、詩をつくり、
好きな本を携えて、山を越える。

日々表情を変える山並み、雲、空。
朝焼け、夕焼け、星、月、緑。
羊飼いでなければうたえない詩をつくる。

気にいった詩を恋人に捧げる。
その、ささやかな営みを想像する。

そこには、
いくらで売れるかとか、誰にうけるかとか、反響はどうだとか、
そうしたどうでもよい、不純物や雑多な物は介在しない。

言葉とか、人の営みとかを思い出すとき、
それは、かくもシンプルなものなのだと改めて気づく。

そのシンプルさに耐えられるかどうか。
我慢できなくなって、不必要なものをコテコテつけたりしたくならないように。
気をつけたいものだ。

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わたしをさがして

わたしらしく、とはよく言われるフレーズだけど、わたしらしくいることは、言うほど簡単なことではない。
そもそも、わたしってなによ?

何もしないで、いるだけで、わたしでいられたら、そんなすごいことはないと思う。

「なりたい自分」になるための自己啓発セミナーがあるそうだ。
そもそも自分とは何かって問いだって一生もので、哲学的なはずなのに、
「なりたい自分」なんて、なんだろうね。
なりたい自分と自分は、別のもの? でも、なりたい自分をイメージしてるのは、自分のはずたし??

で、セミナーで講師の先生に助けてもらって、「なりたい自分」とやらになる。

ますます自分から遠ざかりそうな気がするなあ。

セミナーなどで取り組む内容と、自分ひとりで静かに行うことが、世の中にはあって、
それは、別のものとして分けて考えたほうがいい気がする。

なりたい自分を目標設定して、講師の先生とかお仲間と一緒に客観的に評価する?
なりたい自分に近づけましたね?って、評価するなんて、とてつもなく変だよ。

自分っていうのは主観的なものだから、それを人に頼ることなく、客観的などに逃げることなく、認めることからしか、始まらないって思う。

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