いま、ここ、なんです
患者であるわたしは、主治医の一言にうろたえたり、舞いあがったり、さながらジェットコースターに乗った気分で、日々を過ごさないといけないこともある。
年明けに、治療目的の入院が決まり、何をするかの方向性が決まり、
主治医とはそれにむけての話をしんみりできて、ようやくひと心地でき、穏やかな気持ちで年越し、新年も迎えられそうだ。
そんなんで、思い返してみても、わたしの場合、とっくに死んでてもおかしくない状態が何度かあったので、まったくもって、
いまここに生きてることが、奇跡。なのだなあ、と思う次第。
いまは右腕がまったく動かなくなってしまって、左手だけでキーボードを打っているのだけど、正直むっちゃ大変。ユニバーサルデザインの観点からもアイフォーンのほうがはるかにすぐれている。
・・・・・・・
興味本位でブログをチェックすると、わたしと似たような状況の患者さんが闘病記を綴っておられるのもあるし、中には既にお亡くなりになっていて、ご家族がたまに更新しているのもある。
それで本を出した人もあり、「ネタになるんだ、ふううん」と思ったり。たぶん、わたしもそれをしたら、アクセス数ものびるだろう。
アクセス数が増えるのって、まあ、ちょっとはうれしいだろうけど、それでわたしの病気がよくなるわけでもないし、たいして役に立たない気がするので、
わたしはしたくないなと、思っている。
なぜか。わたしは自分の病状を客観視したくないんだと思う。
実は、これまでも医者でも予測できない状況が何度もあって、
で、その都度「あ、こうなりましたね、じゃあこうしましょう」的な治療をやっているときに、
医者なんだからどうだとか、間違った見解は許せないとか、エビテンス、とか、成功率とか、一般論や先入観でやってしまう、お医者さんにしちゃうような期待って、
ぶっちゃけどうでもいいのよ。もちろん、そういうときこそ、データや経験を持ってるか否かが、すごく問われるのだけど、そんなの当たり前で、わたしたちはやっていて、
病院の狭い診察室では短時間の会話でやるべきことがぱぱっと決まり、速攻でほかの科のドクターに電話がつながり、院内ではすべてネットで情報がつながっているので、あっというまに話が決まった。
それだけの話。プロの仕事なだけ。
無駄で、ぬるいやりとりはそこには介在する猶予はないのだ。
思い返せば多分、先日のドクターとのやりとりは、十分、ドキュメンタリーネタになったと思う。
でも、それを見せものにして、いったい誰に得があるのだろうってことなのよ。
見せ物にするってことは「客観視」するってことでもあると思うんだけど、
医者も含めた当事者同士にとって、それはまったく不必要な作業であると気づいた。
わたしたちはチームで治療にあたっており、それは唯一無二であり、それぞれに大切な役割を担っている。
傍観者ややじうまはいないのだ。
ところがこの状況をブログに書いちゃうと、その関係性が壊れてしまう。
ブログを読むことで、読んだ人は大なり小なり巻き込まれてしまうし、読んだ責任が生じる。
書き手としては読んでくださっている人に変な責任を負わせたくないし、
そこに、エネルギーをかけたくない。それを恐れるので、地味なブログのまんまでぼつぼつと、ひとりごとを書き連ねたいと思うのだ。
で、書かないで、なんなんですけど、いまわたしが味わっている感覚は、
なにかが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似たできごとも、体験も持たない。私たちの視力も聴力もそれについていけない、私たちの語彙ですら役に立たない。
私たちの内なる器官すべて、そのどれも不可能。
なにかを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません。
感覚の新しい歴史が始まったのです。(P31)
で言われる「感覚の新しい歴史」の感覚のように思う。
果敢に自分自身の枠から出ようとするし、わたしはそれを恐れない。
いずれ表現できる時が来るかもしれないけど、来ないかもしれない。
それが目的ではないので、どっちでもいい。
むしろわたし自身がその感覚を十分自分のものとして味わいつくすことのほうが、大事だ。
それがないと、「表現する」ったってアナタ、枠内のお約束と予定調和にまみれた、残念な「表現」でごまかすことになってしまう。
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どうでもいいことなんだけど、
年末年始のテレビは、絶望的につまらなく、ほんと、テレビは「いま、ここ」に乗り遅れているなあって思った。
お笑いと震災関連と再放送を見ながら、
つくづくと「被災者」って呼ぶの、そろそろやめたほうがいいなと思った。
テレビとかメディアは何か対象者を定めてそれを「客観視」することで成立していると思うんだけど、
もうその、二元論的ものの見方そのものに、限界がきているってことなんだろうなあーと、思う。
こっちも変化しているし、相手も変化している。今のメディアはそれに気づいていない気がする。
流動性。常に変化し、固定化は不能。それを無理無理、言葉で押しとどめて、蝶の標本のように箱に入れているのがテレビ番組。
蝶が飛ぶ、ほんとの美しさは、そこからは伝わらない。
蝶を自分のものにしたい、独占欲と支配欲はテレビそのものとよく似ているなあと、納得。
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