医療と介護はなぜ当事者不在なのか
高齢者介護や医療の報道を見ていていつも違和感を感じるのは、話し合いの場に「当事者がいない」ことだ。
例えば昨日のニュース9では、一人のお年寄りについてのケア計画を、病院の会議室で関係者が集まってたてていたが、医療と介護が同じテーブルにつくのも画期的ということだったけど、
当然ながら、ベッドから一歩も動けないであろうケアを受ける本人はそこにはいなかった。家族はいたけど。
以前、介護運動の活動をされていた人に話を聴いたとき、「当事者って誰ですか?」と聞くと、
「家族(介護を担う嫁)」と教えてくれた。
運動するにはシンプルが一番だから、家族が本人の代弁をしてくれるでしょうね、ってことで、まあいいかとは思ったけれど、
違和感はつきまとったし、運動をしている人たちは「変だ」と思わないんだろうか?と
そのことが不思議だった。
医療のチームでも治療とリハビリでは視点がまるで違う。専門家は自分の立場を主張するので、いっぱいいっぱいだ。
でも、昨日のケア会議一つでもそうだけど、会議で出されるベストの選択が、本人の希望するベストかどうかは分からない。
本人は明日にでも楽になりたいのかもしれないよ。
寝たきりになりそうな人でも、一日数回のリハビリをすれば、動かせるって話なんだろうと思うのだけど、
そういうことをずっとしていると、たぶんなかなか死ねないだろうなあーと思った。
なかなか死なないのは、本人の意志なんだろうか。
自分はこういうふうに死んでいきたいという希望を聴くことはあったんだろうか。
見てると、みんなよかれと思ってやっているだけに、難しいなと思った。
今、たまたまチベット仏教の本を読んでいるだけに、日本や西欧文明が当たり前と思ってきた、
死を見てみないようにして先送りして、生きることに執着する生き方ってどうなんでしょう?
と、つくづく思った。
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いかに生き、いかに死ぬかを常に考えての結果が、最高の医療と介護を受けて、とことん寿命をのばすことである、
というならまだわかるけれど、
生涯現役。死に方なんか考えてこなかった結果、
自分自身の介護方法や死に方を決める会議には参加させてもらえず、
医療と介護の関係者のいいなり(言ったってサービス提供者でしかないよね)で、こういう死に方になっちゃいましたっていうのは、どうなんでしょうね。
そういう情報を、制度論としかとらえず、他人事として、わたしたちは日々「当たり前だ」と思って見ているってのも恐いことだ。
折しも、そのテレビを就活中の息子と見ていて、
仕事を決めることができたとしても、社会保障の負担は増えるばかりで、子育ては楽にはならず、
希望は見えませんが、なんか「希望はあるよ」って励まし合う文化が形成されておりという彼らと、
現実を見ることをせず、成り行き任せでここまでやってきて、
ほかの誰でもない「自分の死」を先送りして、無自覚に平均寿命を延ばしている人たちを、間にたって眺め渡した。
これから先何十年も必死になって支えざるを得ない、息子たち若者の行く末を本当に気の毒に思ったのだった。
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