絶望ってあるんだ
10月25日に出たばかりの本。
石井光太著 『遺体 震災、津波の果てに』 新潮社
釜石市を舞台に震災によって町じゅうにあふれた遺体を、生き残った住民たちはどうしたのかを、
できるだけ淡々と書き記したルポルタージュ。
震災後、多くの人と同様に、わたし自身もわたしのなかで世の中に対する認識が大きく変わったと実感している。、
それは、わたしたちのいるこの世に、「ものがたり」はないなってことだ。
わたしたちは、生きていく方便として、
つらいことやたいへんのことがあったら、すぐにそれを補うに余りあるすばらしいことがそのあとに来る、
株価が下がってもそのうち元に戻る、
失恋してもまた新しい出会いがやってくる、等々・・・
好きなものがたりをこしらえてなんとかつらい現実につじつまをあわせようとするんだけど、
底の底のとことんまでいって、はいあげるきっかけなどどこにもないことが、
何の理由もなくあるのだ。
ある日突然、大切な大切な家族が津波に流されて、変わり果てた、本当に変わり果てた姿で、町の廃校になった中学校の体育館に、
棺ではなく納体袋や毛布にくるまれて安置されている。
家も職場もすべてを流されて、避難所生活だから連れて帰ることもできない。
遺体が腐るとさらにまずいから安置所は暗く、寒い。
おびただしい遺体を体育館まで運び、できるだけ手厚く葬ろうとしたのは市内に住む公務員や消防職員、民生委員、葬儀社社員、僧侶などだ。
彼らもみな親戚や知人などに津波の被害者がいるという状況で、この業務に携わっていたという。
このルポからしか想像できないけれど、たぶんそれは、地獄絵図だと思う。
釜石市の人たちは、被災地の人たちは、生きながらにして地獄を見てしまったのだろう。
来る日も来る日も被災地に広がる惨状を目の当たりにするにつれ、
私ははたして日本人はこれから先どうやって
これだけの人々が惨死して横たわったという事実を受け入れていくのだろうと考えるようになった。
震災後間もなく、メディアは示し合わせたかのように一斉に「復興」の狼煙を上げはじめた。
だが、現場にいる身としては、被災地にいる人々がこの数えきれないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限り
それはありえないと思っていた。
復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。
人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、
それを一生涯十字架のように背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ。(P262)
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