ネットをしない日々
思うところあって、「ネットのない暮らし」を模索中だ。ブログも気がついたら1カ月近く更新しない日々だった。
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わたしがいつも行っている美容院は、ホームページすらないけれど、3カ月先まで予約でいっぱいだ。
客であるわたしたちはこれ以上予約がしづらくなると困るから、クチコミで友だちに紹介することすらためらう。
でも腕がいいのは一目瞭然なので、目ざとい知人などは「あなたの行ってる美容院、教えて」と聞いてくる。
別に宣伝などしなくたって、仕上がったヘアスタイルが「作品」となり、勝手に宣伝してくれるというわけだ。
そういうもんじゃないのかな?ものごとって。
いいものは派手な宣伝などしなくたって、売れるのだ。
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今朝の「おひさま」で、おかあさん演じる樋口可南子が「家族でいたいんだよ」と言っていた。だから陽子たち若夫婦は仕事を辞めて、店の仕事をするようになる。
このドラマでは
「わたしは身の丈で生きていきたい。家族や近しい人を照らす太陽でいたい」というようなセリフも出てきて、
わたしはそこに作者の強い意志のようなものを感じる。
テレビやネットが、
「いつでも、どこでも、手軽に気軽に」「簡単・便利」「会ったこともない世界中の人たちとつながれる」
ことはすばらしいと言っている。
繰り返し言われるとそれが正しいことで、当たり前のことで
手軽で便利でないことはダメなこと、ネットが使いこなせないのはダメなこと、世界の情報を手に入れられないのはダメなことのような気がしてくるから恐い。
「節電の夏」と言いながら、クーラーとめてもテレビつけながらネットばんばんやってるようじゃ、たいした節電にはならんでしょ。
ものすごい「自己矛盾」を抱えながら、電波とばしてるってことぐらい自覚しないと
「節電」の本質を見失う気がする。
わたしはPCほどの情報検索能力も、情報処理能力も、記憶力も何もない。
なので、PCや携帯がなくても生きている程度の「身の丈」でいいかなーという気がしている。
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かつては、文字をもたない高度な文明があちこちに存在したという。
文字を持たないということは、人から人へ「口伝」で伝えることになる。
口伝と記録。どっちが「確実」なんだろう?
記録はたくさんの人に伝えることはできるけれど、それが「確実」かどうかは疑問だ。
育児のような「暮らしの文化」は記録にもっともそぐわない。「口伝」は「経験」と二人三脚だ。
だから、「口伝」がすたれて、育児書頼みになったとき、「マニュアル育児」と揶揄されたのだ。
「口伝」がすたれるということは、「経験」もまたすたれるのだ。
「いまここ」がすたれるのだ。
「手段」であるはずの記録が「目的」になってしまう場合だってある。
それに記録の恐さもある。書いた時点で、書き留める感じ?
そこにある流動性や柔軟性を損ねる感じ。
そもそも記録が真実を伝えているかどうかは疑わしいというのが、歴史学の常識だ。
そんな欠点もある記録の中でも電波で伝えるネットはさらに精度が落ちる気がする。
ブログは無料で利用できるかわりに、広告がつく。まあ、言ってみれば広告ぶら下げながら街中歩いている感じか。
わたしはお金を払って広告を出さないようにしている。
そういうからくりに飲み込まれて、わたしたちはネットをしている。
ツイッターもフェイスブックも別に~。
それよりも、ネットをお休みしたことで無理にアウトプットしなくてもいいという心地よさを感じたんでした。
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