« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

2011年6月

教科書に正しいことは書いてない

今朝のNHKドラマ「おひさま」では、終戦を迎えた陽子先生たちが、「国の指示」で今まで使っていた教科書を墨で塗りつぶすというシーンをやっていた。

これが正しいと思って教えてきたことを全否定されたようで、これはつらいなと見ていて思った。

教師をやめようと思ったとナレーションも言っていたし、これからどうなるかは知らないけれど、しかしながら、

これが、今でもやってる、教科書検定の走りだったんだろうなあと、思った。

間違ったことを教えてしまった苦い挫折。こどもには正しいことを教えたい(という教師のエゴ)から、正しいことを書かれた教科書を使う。

だから、国の指定した教科書を・・・

???

いや。それにしても、国の指定した教科書は、絶対間違いを書かないのかな?

そんなに国を信用しちゃって大丈夫なのかな?

国に相当に重要な判断をゆだねてないか?

そんなことよりも、教科書に書かれていることは、その時代時代の価値観で大きく変化しますよー

という当たり前すぎる事実こそ、教えたらいいんじゃないかと、わたしは思う。

「正しい」なんてことは、この世の中にはたぶん、ほとんど存在してなくて、その人が思う正しいことをベースに、人はものを想い、行動するものだ。

だから、自分でよく考え、よく調べて、正しく行動し、その行動に責任を持てる大人になりましょうね、と、教育するところが学校なんじゃないのかしら。

ひとつの正しいことを先生が教えて、先生の言うとおりに行動する「よい子」を育成するんじゃなくて、

自分の生きる道は自分で判断できるだけの力を育てる場が、教育現場なんじゃないのかな?と、わたしは思う。

たとえば、黒塗りにした教科書と、新しい教科書を比較してみて、どうしてここを黒塗りにしなければならなかったのか、

比較、検討し、当時の国の考え方、変更点を客観的に評価・分析する

どっちが、いい、悪い、なんてものは、当時の人ではないわたしたちには、わかりっこないんだから、

できることは、できるだけ冷静な視点で、その時、何が起こったかを見ること。

自分で考えるのは、もう少し後でもいいんじゃないだろうか。

多様な考え方がある、という事実こそ、まずは受け止めることでしょう。そこからしか、思考できない。「自分の考え」なんて生まれない。

・・・・・・・・・・・・

そういう意味で、日本は遅れているし、なんだかんだ言っても欧米はすごいなと思う。

たとえば、昨日の海外ドキュメンタリーでは、「この子に心の薬は必要か」をやっていた。

http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/101111.html

精神疾患のこどもに、薬を投与するのは是か非か? その重い問いかけに、テレビは真っ向からいどむ。

治療現場にテレビカメラが入るのはどうか?と、わたしは思う立場なのだけど、

そんなことは、100も承知。「テレビカメラ」として、そこに参画する覚悟のもと、BBC放送局は治療現場にも行くし、こどもたちにも直接インタビューを試みている。

続きを読む "教科書に正しいことは書いてない"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

要はそこから何を得るかなんだ

ネット社会になって、ブログやツイッターやフェイスブックなどを通して、誰もが「気軽に」自分の考えや思いを発信できるようになったことの恩恵は、計り知れない。

そこでわたしたちが心したいのは「いろいろあって、みんないい」なんだと思う。

正しい一つに集約するためにネットはあるのではなく、多様性にある。だから、わたしたちは、たぶん、その、いろいろあることの「居心地の悪さ」も心地よさとともに受け入れなきゃいけないんだろうな。

そこで思ったこと。わたしは「かなしみ」から、できるだけ逃げないようにしようって。

かなしい気持ちは、否定されるものなんだろうか。悪なんだろうか。善の対立軸なんだろうか。

わたしはそうは思わない。

モーツアルトの有名なピアノ協奏曲20番は、不安や悲しみなど負の感情を表現し、

貴族好みの長調の、ピアノもオーケストラも同じ旋律で大合奏が当時の流行であったところに、大きなショックを与えたという。

ピアノやオーケストラが人の感情のひだまで表現しうることを表した後世の転換点になる曲だったそうな。

まったくなかったところにそういうものを作っちゃうってとこが、モーツアルトなんだね。

即興個所であるカデンツァを、ベートーヴェンが作ったっていうことだけど、彼のすごさを追いかけたくて、作ったんだろうなあ。その感じ、わかる。

あの曲の前と後では、時代がまったく違ったんだろうな。

そう思えば、感情のひだは多くていい。

「かなしみ」があるなら、・・・わざわざそこに居続けることもないかもしれないけれど、いたいならいればいい。

かなしみをみることが「生の否定」にはならないだろう。かなしみから「生の肯定」をつかみとることだって、十分出来うる話しなんじゃないか。

そんなことすらできなくて、かなしみから目をそらして、みのもんた風の「一日も早く」「明るい笑顔」「家族の熱いキズナ」がまん延し放題だったら、それはそれで、大政翼賛会風で困るワ(笑)。

なんのためのネットだってことになるし。ブツブツ・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東電株主総会の話題は、ある意味大きな節目の話であるはずなんだろうなと思うのだけど。

<東電株主総会>「原発撤退」は否決 勝俣会長続投

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110628-00000128-mai-bus_all

東京電力福島第1原発事故後、初めてとなる東電の株主総会が28日、東京都内のホテルで開かれ、過去最多の9309人の株主が出席、所要時間も過去最長の6時間9分に及んだ。

株主からは、経営責任や事故を起こした場合に事業者が無限責任を問われる原発保有の是非を問う厳しい意見が続出した。株主402人が「原発撤退」を求める株主提案を行ったが、賛成は株主(議決権ベース)の約8%、反対が約89%(棄権や無効などが約3%)で、反対多数で否決された。一方、清水正孝社長(67)の引責辞任に伴い、西沢俊夫常務(60)を社長に昇格させるなど取締役17人と監査役2人の選任議案を可決した。勝俣恒久会長(71)は続投する。

 福島原発事故後、東電の株価が一時、10分の1になるなど急落したことを受けて、出席株主は過去最高だった昨年(3342人)の3倍近く、所要時間もこれまで最長の99年(3時間42分)を大幅に上回った。株主からは原発事故の経営責任や、「脱原発」の是非を問う質問が相次いだ。

 原発停止の株主提案に対し経営陣は反対を表明していたが、多くの個人株主が賛成に手を挙げた。福島第1原発事故で市内の一部が警戒区域に指定されている福島県南相馬市と同県白河市も賛成。自らも福島県民という提案株主の一人は「(原発事故で)流浪の民になった。こんな経験は私たちだけで十分」と訴えた。しかし、実現には議決権ベースで株主の3分の2の賛成が必要。議決権の6割超を握ると見られる法人株主の多くは反対した模様で、勝俣会長は「大株主から多くの委任状を受け取っており、(経営陣の意見に)賛成をいただいている」として提案を退けた。ただ、従来は5%程度だった脱原発の支持票が8%に上昇したことは個人株主を中心とした原発不信を映し出した。

 脱原発を主張してきた株主は「津波の問題は過去にも指摘してきた」として経営責任を追及。「責任はOBにもある」として、企業年金の減額を求める声や「役員は私財を売却して賠償に充てるべきだ」との指摘も相次いだ。原子力担当の武藤栄副社長は「予想を上回る津波だった」と釈明。勝俣会長は「(賠償は)原子力損害賠償法に基づき、公正かつ迅速に進める」と述べるにとどめた。ただ、役員に対する退職慰労金支給について勝俣会長は「(事故原因が不明確で)総会後の取締役会で決議できる状況にはない」と見送る考えを示した。【永井大介】

この記事によると、

「株主からは、経営責任や事故を起こした場合に事業者が無限責任を問われる原発保有の是非を問う厳しい意見が続出」、「株主402人が「原発撤退」を求める株主提案を行った」

とあり、これは「一般的な人の普通の反応だよ」と思う。

が、賛成は株主(議決権ベース)の約8%、反対が約89%(棄権や無効などが約3%)で、反対多数で否決された。

この部分はテレビで見ていたのだけど、挙手を見る限り、賛成8%、反対89%ではなかったな、と思った。

記事では「しかし、実現には議決権ベースで株主の3分の2の賛成が必要。議決権の6割超を握ると見られる法人株主の多くは反対した模様で、勝俣会長は「大株主から多くの委任状を受け取っており、(経営陣の意見に)賛成をいただいている」として提案を退けた。」とある。

多様な声は、表明させてやるけど、決めるのは大きな声のほうだからねっ

っていう典型だなー。

個人株主にしてみれば、株価は下がるし、こんな待遇されるし、最低だな~~。

国民なんてのは、おとなしく、文句言わず、言われたことだけやって、「買え」っていうもの喜んで買ってりゃいいんだよってことか。

それが答え? そうじゃないよね。

ハッピーで暮らせるなら、大人しい国民でいてあげてもいいけど、

あんな不安や心配や、不信や、かなしみや、悔しさを、棚上げして、なかったことにはできないでしょう。

こういう局面から、いろんなことを学ぶってのが大事な気がする。

こういうことを、今まで許してきてしまった自分たちのうかつさも含めて。

大きな声になびくことは、多様な声をかき消すことになる。

だから、「え?」って思われるかもしれないけど、わたしはわたしの声を出す。

間違っているかもしれないけど、でも「間違い」ってジャッジするのは、いったい誰?

この件に関して言えば、あんな事故があって、大変な状況はまだ続いているにも関わらず、「脱原発」を言わないほうがわからない。

原発推進に乗る方がリスク高って思うけどなあ。

ま、それはともかく。今、「一般的人の普通の反応」が、どんなふうにごまかされていくか、それはどうなるか、自分のことだもの、見たくないけど、見ないとね。

続きを読む "要はそこから何を得るかなんだ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「はかないこと」から逃げないこと

吉田秋生さんのマンガはわたしたち世代の間では、なかば「神格化」されたところもあって、

都会的なセンスのよさと、女の子の揺れる鋭い感性と、けだるさをびっくりするような確かさで絵にして見せるところに、

当時の若いわたしたちは「わっ」と、圧倒されたものだ。

というものの、正直「鋭すぎる」のも事実で、気がついたら何冊も買いそろえていたけど、

「きっつくて」、こっちが「普通」の時は安心して読めるのだけど、こっちが不安定な時に読むと、どうにも引っかかりが出てしまい、

引っ張り出しては何度も味わうってわけにはいかないのだ。

そんな作家の円熟味ました最近の作品、『海街 dairy 陽のあたる坂道』

110628_181128

中学生の主人公、すずは、父が連れ子を連れた陽子さんと再婚することになり、家族5人で山形の温泉町に住んでいた。

ところが、その父が病気になり亡くなった。お葬式の席で、父には前妻がおり、すずの腹ちがいになる姉が3人いることがわかった。

いろいろあって、すずはその3人の姉たちの住む鎌倉で暮らすことになる…っていうようなストーリー。

すずと3姉妹の父は、3姉妹と妻を捨て、すずの母親と一緒になる。

その母は病気で亡くなり、すずと父は残され、陽子さんと暮らし始めた矢先の病気。

3姉妹は、感情を出さずに葬式に臨むすずと、対照的にただ泣き崩れる陽子さんを見て、

「自分のことでいっぱいっぱいなのに、『家族ですから』すずを育てますなんて、簡単に言っちゃっていいの?」と、「大人のいい加減さ」に、いらだつ。

挙句に、お葬式のあいさつを陽子さんは取りみだしてできないから、『しっかりもの』のすずちゃんに、お願いしたいと親戚のおじさんが言いだす始末。

長女のさち姉が、「それはいけません!」と一喝。

「これはおとなの仕事です!」

「おとなのするべきことを子供にかたがわりをさせてはいけないと思います」

「私の勤務している病院の小児病棟にはいわゆる難病といわれている子がおおぜいいます。

そういう子は例外なくいい子でしっかりしています。なぜだかわかりますか?

厳しい闘病が彼らが子供でいることを許さないからです。

子供であることを奪われた子供ほど

哀しいものはありません

長女は病院、次女はまちの信用金庫で、大人の修羅場を見ながら暮らしているってことが伏線にあって、

彼女たちの恋物語ひとつとっても、微妙な影がそこにはある、んですなあー。

しかも舞台は鎌倉。おしゃれ~。男の子はみんなイケメン。

思春期あたりの子どもたちが、親のエゴに振り回されて、くたくたになるってのが、吉田作品の特徴の一つなんだけど、ここにも、「ああいうタイプ」の女の人の典型として「陽子さん」が登場する。

自分のことでいっぱいいっぱいで、甘えることばかりしたくて、嫌なことからは逃げて回る。

連れ子2人連れて再婚したものの、夫が病気になると、なんやかやと都合をつけて、見舞いをすずに押しつけて、自分はほとんど行かなかった。

そして、1周忌を待たずにまたもや新しい男をみつけて、すでに温泉町を後にしていたっていう、ゆるゆるさ。

いわゆる、わるい「悪女」じゃないんだけど、「あー、いるよねー、こーゆー女」っていう女。

都合の悪いことは、誰にでもおっつけて、楽しいことだけやっていたくて、うまく立ち回っているように見えちゃう人。

「許容量が小さいからってそれを責めるのは酷」と言いながら、

当然、吉田はこーゆー女に手厳しく、そんなぬるさに振り回される年下の女たちの

いらだちも、やりきれなさも、なんもかんもあけすけに描いている。

それが、「きつい」と感じる理由なんだろうと思うけど、見えちゃうから、描かずにはいられないんだろうなあーとも思う。

どっかで、「見て見ぬふり」「知らん顔」「ばっくれ」たいものよ、おとなは。

そのつけを、こどもに払わされたらたまりませんワ、って言いたいんだよね。ハイハイ。

っていうようなことを、ずっと書いてきた吉田さん。で、それを読んできたわたし。ふぅ。

父の病院に通っていた記憶がぬぐえず、自分の部屋に好きな色のカーテンがかけられなくなってしまったすず。

その話をまるごと受け止めて、ようやく少しずつすずの時計の針が動き始めているのを察するさち姉。

こういうちょっとした気持ちのやりとりを~~

こんなにも美しく、さりげなく、絵にしちゃいますか~~

はあ。

でも、思った。「時計の針が止まったまま」の人は、間違いなくいるって。

そして、その針が動き出すか、どうかは、本人のことで、

止まったまま ← 避けること

動きだす ← 望む姿

っていうふうに、安易なオチは、つけないほうがいいと思う。

一度、落ち込んでそれを乗り越えた姿が、美徳だと思うので、みんなそれを望むのだけど、

「失意のうちに」世を去った…なんて話は、実はごまんとあるのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

続きを読む "「はかないこと」から逃げないこと"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

魔法

2年ぶり近いタイミングで、コマツさんが遊びに来てくださった。

「どうしてるかなぁ」とか「会いたいなあ」という気持ちはお互いさまで、そう思いながら会えなかった時間っていうのも、それなりの理由があった時間だったと思う。

「会いに行っておいでよっ」と、コマツさんの背中を押してくれた恵美ちゃんに、感謝。

「スギヤマさんがしてきたことは、すごいこと。ひとつの時代を作ったと思うわよ」と言われて、

正直、実感もわかないし、内心「病気にならなかったら、もっとやれる」と思っていたこともあって、「そんなものかな?」と思ったりしている。

いまのこども系の失速は否めなくて、結局、こうなっちゃったってことに、やっぱり目がいってしまう。

でも、そういうのも全部、もういいかなー。言っても仕方がないし。

わたしはそこにいる必要は全然ない。

あの時、ものすごくよくがんばったし、力を発揮したのは間違いなかった。

力を発揮する場も用意されていたし、のびのびと働くことができた。気持ちよかった。

それで十分。

今は、もはやそういう場合じゃなくなっている感じだね。

・・・・・・・・・・・

そんな「マクロ」や「仕組み」の話よりも、コマツさんが築いた会社が代替わりをして子どもたちに引き継がれて、

地域にしっかりと根をおろしていることのほうがすごかったりする。

一緒に始めた介護保険事業が、コマツさんはじめ働く女性の老親の介護を立派に支えていることを目の当たりにできたことが、すごかったりする。

続きを読む "魔法"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

うたの漂泊

岩波新書『読みなおし日本文学史 -歌の漂泊ー』高橋睦郎著を古本で購入して読んだ。

最近は絶版になるのが早く、すぐに古本になってしまう。本を読まなくなっているってことなんだろうなあー。

高橋さんは詩人なのだけど、日本には神の言葉としての「歌」と人の言葉としての「詩」があって、おおまかにいえば、ひらがなを使った和歌はその系譜で、漢詩で詠んだものは「詩」といえるのではないか、ということをこの本で書かれている。

で、人が台頭し神が居場所を失うように、歌も漂泊するのだと。

それと同時に、歌のスポンサーである天皇=神もまた歌と同様の運命をたどっているという。

「漂泊」「漂流」。

彼らは「追われるもの」だ。追われるものがいるということは、追うものがいるということだ。

どっちが「神」だったかは、わからないけれど、追うものがいて、追われるものがいて、彼らにも言葉があり、でも、その言葉はあからさまな表現を使えなかった時、それは「歌」になるのだろう。

厳密にこれだ、と言わなくても、人間の歴史はずっとそういうことをしてきていたように思う。

日本だけでなく、ケルト民族も残したのは歌だ。

文字を持たない人たちがたくさんの歌を残し、歌い継いできていることを、アメージングボイスは教えてくれる。

そして、朝廷を追われた天皇の残した歌や、天皇のそば近くに仕えながら漂泊した西行などが歌の系譜の人として現れている。

この本の残念なところは、和歌などが神の歌というなら、人の歌である漢詩にはどんなものがあるのか、何をして神の歌と言い、何をして人の歌というのか、明確な説明がなかったことだ。

となると、どうしても思いつきや思い込みで、自分の好きな歌を並べてこういう流れもあるんじゃないですかと言っているだけに感じてしまうところは、否めない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここのところ、経済産業省系のニュースばかりトップニュースとして出されることが多いように思うのは、わたしの気のせいだろうか。

原発も推進すると言ってみたり、経済復興のための国債を発行すると言ってみたり。

こういうニュースを優先で流すのはメディアの意図だ。

昨日、旧ソ連の宇宙科学者の番組を見ながら、

どうして地球のことですらうまくできない人類が、宇宙に出たがるんだろうね?

という話をした。

続きを読む "うたの漂泊"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

いろはうた

松岡正剛さんは、編集を仕事にしている人にとっては、必須アイテムの人だと思う。

ので、たまに、千夜千冊http://www.honza.jp/author/1/matsuoka_seigowもチェックしたりしている。

が、どうにも、正直苦手だ。

たぶん、もの知りすぎて、話があっちいったりこっちいったり、うんちくがすごすぎて、ついていけないわたしのようなものにとっては、少々ウルサイのだと思う(ごめんなさい)。

さくらももこの不滅の名作「コジコジ」に出ている「ものしりじいさん」はまちがいなくセイゴオ先生がモデルだ!と、夫と言いあって、

しめしめとうすら笑いを浮かべるような、そんなヤツなんです、おいらは。

ついていけないのだが、言っていることは「なる~」と言うことが多く、大変役に立ちます。ありがとう。

「編集」ってヤツの妙技を、さながらサーカスのように披露してみせる技は、まさにセイゴオ先生ならでは!

そんな正剛先生のご本『神仏たちの秘密』春愁社 のなかに、ひらがなについての話が出ていました。

こんなふうに、あるのはわかっているけど、本棚の奥にほこりをかぶってしまいこんであったものを、ほこりを払って、「ほら、こんなすごいものがありまっせ」って出してきてくれる感じだ。

いろはにほえどちりぬるを(色は匂へど散りぬるを)

わがよたれぞつねならむ(我が世誰ぞ常ならむ)

うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越えて)

あさきゆめみしゑひもせず(浅き夢見し酔いもせず)

色、匂う、散る、有為、夢、酔ふ、といった、日本の無常観を表現する必須ワードを用いた歌を考えたのは、真言宗の僧たちではないかと、正剛さん。

日本でいちはやく日本語というものを深く見つめたのは、空海。その空海のあとをついで、真言密教が言語哲学の研究を徹底してやった。(P312)

先日、テレビで漢字が書けない女性たちが使った文字「女書」が紹介されていたけど、たぶん、ひらがなも「おんなのすなる」ものだったんだろうなーと、それを見ながら思った。

女書は残念ながらすたれていってしまったようだけど、ひらがなは日本文化の柱になったのは間違いない。

ひらがながなかったら、竹取物語も源氏物語も和歌もなんも生まれてなかったろうと思うと、先人のみなさんの努力に、

脱帽だし、ありがとー!!と、お礼を言いたい気分になる。

たぶん、面倒くさがりの民族だったら、「漢文だけでええやんかー」って感じで自分たちの文化を持たず、

中国の先進文化をもらって生きていく選択をしてしまったようにも思うのだ。が、「それじゃだめ」って菅原道真なんかがマジで思ったから、鎖国までして日本を守ろうとしたわけで。

空海だって、「日本のことば」をつくるべしって心底思っていたから、ことばを開発したんだろうと思う。

大国と海を隔てていたことは、つくづくと幸運だったと思う。

そうした幸運を背景に、先進文化の仏教の無常観をベースに、そこに自分たちの身の回りのうつろいいく風景や心情を巧みに織り交ぜながら表現し、

心を通い合わせてきたんだろうな、わたしたちのご先祖様たちは。

理屈で理詰めにしていく方法とは、ちょっと違う会話のやりとり。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

続きを読む "いろはうた"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「集団ヒステリー」なのか

イタリアで行われた国民投票で、「原発NO」の投票結果が出た。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110614-00000001-wsj-int

遠く離れたヨーロッパの一国で、日本と同じように不況にあえぎ、ダメダメな首相にうんざりの国だけど、こういう投票が行われたのね。

「日本も国民投票、やればいいのに」

って思ってる人、たくさんいると思うわ。

それができないお国柄ってことが相当に問題だ、と、思う。

ちょっと前、脱原発を訴える人たちを評して、野党自民党の石原氏が「集団ヒステリー」って言ってたけど、

本当に「集団ヒステリー」なんだろうか?

しかし、与党ならともかく「野党」なのに脱原発が言えないってこと自体がもう、自民党のコモノぶりをしめしてる。

こんなんじゃ、国民の声なんか、どこからも伝えることができない。

たとえば、今までは確かに原発路線で行ってたけど、今回の事故でそれは見直すべきだと思った!!

とか、別に守るもののない野党なんだから、男気を示してみたらいいじゃんね。

仮に、「集団ヒステリー」って言うなら、そこまで国民を追い詰めてしまったことを政治家は恥じるべきだし、

集団ヒステリーをおさめるために、国民の不安を取り除くために、今一層の正しい情報提供を行うべきだろう。

どうして日本では原発の是非を問う国民投票が行われないのか。

大事故が起こったら、その土地に住めなくなるというリスクを承知で、

でも、都会に電気を供給するのが、産業の何もない過疎の地方の務めであり、

見返りに、整備された道路と建物と、雇用があるなら、いいんじゃね?

というのが、地方に住む人たちの大半の意見なら、都会で暮らすわたしはそれに従おうと、思う。

新しいエネルギーにコストがかかるから電気代があがるのが、放射線の危険性よりいやだっていう人が多いなら、

日本ってのはそういう国か、と、納得しよう。

とにもかくにも、集団ヒステリーと切って捨てる前に、まあ、国民に聞いてほしいよ。

続きを読む "「集団ヒステリー」なのか"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

いちばん恐いことは

NHKドラマ「おひさま」もいよいよ佳境に入り、終戦の前年のお正月を迎えていた。

先週の放送で、英語の先生が敵国の言葉を教えることができなくなり失職するというシーンをやっていたのだけど、その様子を見ながら、

「どうして日本は戦争なんてばかげたことをするはめになっちゃったんだろう?」っていう根本的で相当大切な問いを、

当時の人たちは持たなかったんだろうか??

という、「おいおいおい…」な疑問を持ってしまった。

考えても仕方がないから、考えないようにしていた

っていうのが当時の生き方だったように思うけれど、たぶん、その「作法」は、民主主義でない国の国民の生き方になっているように思う。

中東の革命の様子などを見ていても、自分の考えや意見を表明できることのために、人は闘っており、場合によっては命を落としたりしているのだ。

戦時中の日本において、「日本は戦争を拡大していこうとしているけど、それは正しいやり方とは思えない」とか、そういう持論を言える人は、ごくごくわずかだったろうと想像に難くない。

当時のことはどれだけ想像してもわかりようがないのが、わたしの正直な気持ちで、

今できることは、「同じ過ちを繰り返さないために」何ができるかだと思う。

原子力発電所のニュースなどを見ながら、21世紀は国同士がするような大きな戦争は防げるかもしれないけれど、

環境破壊や放射能の汚染など、もっと別の恐いことが広がる恐れがあるんじゃないだろうかと、思った。

そんなときに一番恐いのは、一人ひとりが思考停止に陥ってしまうことではないだろうか。

政府は何をやってるんだ ってのは、今なら誰でも感じることだ。で、そのうち、関心を持つのもバカバカしくなって、情報を得るのもやめてしまったりする。

そうじゃなくて、

どうして日本の政府は、あんなんで何とかやっていけてるんだろう? と、考える。

どうして「あんなに」なってしまったんだろう? と考える。

多分、原因は一つではないだろうが、いろいろな要因が複雑に絡み合って、そうなっているということに気づくだけでも、わるくないように思う。

関心を持つことで、光が当たるというか。

続きを読む "いちばん恐いことは"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

おまけ うたの話

暗きより 暗き道にぞ云々…していたら、「ああ、やはり」という話がぼろぼろ出てきて、得心している。

たとえば、

「震災から3カ月になりますが、まだまだ復興というには早すぎる状態。復興ということばが重くのしかかっています」

というNHKニュースの現地からの報告。

状況をよく知りもしないで「一日も早く」って、軽々しく言うなってことだろうなあ。

夫の知り合いで何度も現地にボランティアで訪問している人が、

「テレビで映っているのはまだましなところの映像ばかり。撤去できるがれきはとっくに処理できてるけど、そうでないところは何もできずに放置されている」と、教えてくれたそうだ。

今日の「おひさま」でも、雨漏りの音が隣にいない人を思い出させて、ふとんをかぶって泣く陽子ちゃんが出ていた。

あの時はそうしていたけど、我慢できてたわけじゃないのよ…という当時を思い出してのナレーションは、巧みだな~と、脚本に感心した。

ぼんやりと見ていたクミコさんの「ようこそ先輩」。地元の小学校だったので、つい見ちゃったのだけど、これも、「うた」だった。

咲いた 咲いた チューリップの花が~の歌に歌詞を書いてみようってことで、子どもたちがへこたれたときのことを詞にしていた。

泣いた 泣いた  ~ 泣いた 泣いた  に歌詞をつけるっていう課題も「ヘー」って思った。

一人として同じ歌詞のない、こどもたちの正直な気持ちに、「はっ」とすることばかり。

みんな、こんなふうにいろんなこと思ってたんだ!ってのもわかってよかったし、その後、ペアになって話を聴きあい、

励ます歌をつくるっていうプロセスも、クミコさんってすごいなあーと思った。     

続きを読む "おまけ うたの話"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

うたの話

「あなたは太陽の陽子。いつも笑ってなきゃ」

っていうのはすごくわかるし、けなげな主人公に、有働さんじゃないけどホロっとしながら見ているけど。

「前向き」オーラ。周囲もそれを求めるし、すごくよくわかるけど、日常生活はドラマじゃないし、

そういうんじゃないメンタリティって、どういう感じなんだろう? みんなそういう気持ちになったときに、どんなふうに折り合いをつけているんだろう?と、

「梁塵秘抄」に始まって、興味があって、いろいろ探る旅に出ている。

たとえば、昨日久々にテレビで歌ってた甲斐さん。相変わらず、いい声。

長く暑い夜の海を 愛しいものの名を呼んで 

みんなさまよい流れてる

俺は アウトロー お前が火をつけたら爆発しそう

誰か俺に愛をくれよ 誰か俺に愛をくれ

一人ぼっちじゃ 一人ぼっちじゃ

やりきれないさ(アウトロー「漂流者」)

こういう歌。やっぱり今聴いてもすごいと思う。「誰か俺に愛をくれ」って絶叫するんだよ。

魂の叫びというか。揺り動かす力というか。

今読んでいる白洲正子さんに『花にもの思う春』にあったのだけど、万葉集、古今集、新古今というふうに時代が新しくなるにつれ、日本語が洗練され、技巧的になっていくという。

プロの歌になっていくって感じかしら。

一方で和歌とは別に今様のような流行歌も出てくるわけで、歌の表現が多様化していく時代であったのかもしれないね。

そんな鎌倉時代のちょっと前。

女性たちが自分の気持ちを歌に託した時代。

最初に「あっ」と思ったうた。

暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき

遥かに照らせ 山の端の月(和泉式部)

この人がどんな人だったかっていうのは、受験用文学史の知識しかないけれど、そうした予備知識とは別に、

歌そのものから切なさとか祈りのようなものが伝わってくる感じがする。

続きを読む "うたの話"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

流れにあらがってみる

NHKのドラマ「下流の宴」を、興味深く見ている。

黒木瞳はああいう極端に走る役をコミカルに、すごく可愛く演じることができる人だなーと、感心。

どうして気になるかっていうと、中高一貫の学校に息子を入れて、いい大学、いい会社に入ってほしいと思う親に、息子が「無気力」で反発しているという構図がどうも他人事とは思えないからだ。

黒木瞳演じる思い込みの激しい専業主婦を見ながら、自分はああではないと思いながら、たぶん、共感できるところがあるってことも認めるし。

「下流にならないように、上をめざしてがんばんなさい」って言われ続けて勉強させられ続けてきたように思うよ、実際。

それで成功できるんだったらそういう教育でもよかったと思うんだけど、

自分たちがやってきたことと違うことを、こどもたちに伝えなければならないって、

どうよ?

と、思う。

親を踏み台に、今度は世界を舞台に飛び出すぜっていうんだったら、まだ話はわかりやすかったのだけど、

「どうしてがんばらなきゃいけないの? ここでいま結構楽しくやってるから~」みたいな価値観を見せられても、戸惑うよね。

時代の回転のスピードが速すぎるよね~。実際のところ。

イタリアの紀行番組などを見ていると、親と同じ仕事を、同じ土地で、同じ家でこどもが受け継ぐといったことが、当たり前のように出てくる。

「親と同じことをやってればいいんだ」と、一縷の迷いもなく信じることができて、自信を持ってできたら、それはとても幸せなことだと思う。

「親と同じ人生は送らない」と、反面教師にしながら別の何かを探し求めてふらふらと都会に出てしまうよりもずっと。

自分の人生は自分で切り開く…とか言いながら、そんなに強い何かがあるわけでもなく、その時代の提示する価値観にどうしたって振り回されて、進路を決めている。

ふうう~。やってることなんて、結局そんなものなのに。いったい何をあんなに大げさに言っているんだろうか。

「健康」や「保険」に関するCMがこのところやたら多い。そういうのを見ながら、

この人たち、自分は死なないと思ってるんだなーと、思う。

生涯青春!とか思うから、老いが見えると恐いんじゃん。CM制作会社の思うツボじゃん。まあ、大金を投入して電波に流しているわけだから、洗脳させてなんぼだけどね…。

でも、この押しつけられた価値観が、自然体の生き方を追い詰めてる気がする。

やめてくれと言ったところで、ものを売りたいからやめることはないだろう、とカンネンするんだったら、

こういう事態の処し方を心得ておくほうが得策のように思う。

どんなふうにやりすごすか、だよなあ。

続きを読む "流れにあらがってみる"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地獄への道は

土台が崩れているところに、小手先のテクニックで取ったりつけたりを繰り返しても、結局ダメなんだなー…ということを、我が国の政局のニュースを見ながら、つくづくと思い知る日々だ。

不信任案の採決の前に、菅さんと鳩山さんたちで合意になった例の覚書の文書、そこに書いてあるのは、

民主党のことだけであって、日本や国民のことではなかった。

大事なのは、国民じゃなかった。「我が党」のことだった。

片付かない瓦礫のなかでいまだ暮らさなければならない被災地の人たちの失望は、計り知れないものがあったと思う。

それにしても。

もともと考え方も価値観も違う、菅さんと小沢さんが同じ党でやっていくほうがおかしかったのだ。

最初からボタンがかけ違っていたのだ。

党の約束であるマニフェスト。「これをやります」と選挙時に掲げた文書。その通りできないのなら、

できないと分かった時点で、解散して、改めて、再度「これをやります」と書きなおした文書を出して選挙で国民に問うのが、筋、ではないだろうか?

マニフェストが実行不可能と分かった時点で、政権に居座る理由はなくなるのだ。マニフェストというのは、それぐらい重いものではないのかな?

「政治家の言葉が重い」というのなら、政治家自身が重くしなければならない。できなかったら、責任を取るという形で。

それを示すから、わたしたちだって、「責任を持って選ぼう」と思うのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・

社会保障制度のことをちょびっとでも知っている人だったら、増税しないで社会保障制度を維持しようなんて、無理だなーと、わかっていた。

民主党のマニフェストは無理だなーと思いつつ、民主党を選んでしまったのは、あーもーの大失敗なんだけど、

失敗したなーと、当時の自分の選択を悔いている人は、たぶん、少なくないと思う。

で、もし、今度また選挙になったとき、

負担を先送りしてもいいから、増税反対の党が票を伸ばしてしまう・・・・とするならば、日本はもう終わりでしょ。

それはもはや、政治家の問題ではなく、選択する国民の問題だから。そこまで「うっかり」のアホの国民になってしまったなら、リーダーが誰になったところで、早晩この国は滅ぶ。

そこまでアホではないと、わたしは思うから、うそやあいまいな表現をしない、まっとうな約束を示しながら政治を行ってほしいと思うのだ。

簡単で、とてもシンプルなことだ。

でも、それが実はとても難しいってことにわたしたちは気づき始めている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以前、国の委員会でご一緒したことのある、東大の玄田先生たちを中心に「希望学」というプロジェクトが始まっているそうだ。

「希望」は「学問」か?

と聞かれると、ちょっとよくわからないし、学問にしようとするのは、まあ、学者さんの好きにしたらいいという範疇だと思うので、どっちでも…と言う感じなのだけど、

そこに原発に関する緊急提言が出されていた。

http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/images/201106_energy.pdf

日本のマスコミは、成り行きの言葉尻をとらえては、どうしたこうしたと騒ぐばかりで、自分の視点からきちんと見るってことをしないので、まったく信用できないのだけど、

こういう視点が、ほしいなと思っていたんだなーーと、読みながら思った。

地獄への道は善意で敷き詰められている

続きを読む "地獄への道は"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

偏らないいきかた

先週の金曜日は昔からのお友達の香川のえみちゃんが、さぬきうどんを持って遊びに来てくれた。

おうどん、重かったろうに、ありがとう。

久々の再会だったこともあって、気を許すとずっと泣けちゃいそうで、泣かないように、話題選びがなかなか難しかったかも…というひとときだった。

「スギヤマさんに怒られそうで、怖くて会いに行けなかったんです」と言われて、わたしってそういう雰囲気を醸し出していたんだなー、と、反省とともに再認識。

スギヤマさんの言うことは正しいことなんです

それができないのがつらいんです

そんな思いをさせていたんだっていうのも、申し訳なくて、ごめんなさいねって思う。

たぶん、数年前の、ガンガンものを言っていた時期だったら、「何言ってるの、そんな甘いことでどうするよ」と、言ったかもしれないけれど、

そういうの、もう、どうでもよくなってしまった。

わたしはいったい何にあんなにもムキになっていたんだろう。

こうあるべきだという理想の姿は、今も理想としてあるけれど、たぶん、その姿には何年たってもなれないだろうと、

今となっては、それが、わかる。

わかるなら、ただでさえがんばっている人を責めるようなことをしなくてもいいのに、と、今は思う。でも、それが当時は許せなかったんだろうなあー。

そして、たぶんそんなふうにして、一番責めていたのは自分自身だったんだと思う。

できないところをみつけては、「ここがまだ足りない」と、完璧をみつけようとして、わたしを責めていたのは、他ならないわたし自身だった。

自分にダメだししてる自分。

「スギヤマさんも、もう、自分を赦してください」と言われて、思い当たることが多すぎてまたほろっときてしまった。

このクセは、いったいいつになったら治るのかしらん?

続きを読む "偏らないいきかた"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

遊びをせんとや

といわけで、「アメージング ヴォイス」おすすめのZAZのCDを購入。

わたしはこういう声が好きなんだなーと、聴きながら再確認してます。

110601_132830

最近のマイブームは、「梁塵秘抄」です。

遊びをせんとや生まれけむ

戯れせんとや生まれけむ

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さへこそゆるがるれ

これは、梁塵秘抄のなかで最も有名な歌のひとつで、北原白秋など後の歌人たちにも影響を与えたものらしい。

「あの、わたし、何しにこの世に生まれたんでしょうね?」と、誰も知りっこない問いかけを漠然と思ったりするときに、

「あそんでりゃいいのよ。遊ぶために生まれたのよ」

と、高笑いの遊女に言われちゃう感じ。

「他に何かある?」

と、すごまれるっていうか。ふふんと笑い飛ばされるというか。

梁塵秘抄には仏教にかかわる歌も多くおさめられていて、

保元の乱があったり、平家の台頭、鎌倉幕府といった当時の世の中から言っても、今なんかよりずっと、

そうした、精神的な心のよりどころを、みんなが渇望していたような気がする。

そのなかで、これを歌うっていうのは、それなりのことなんじゃないのかな?

たぶん、昭和のバブルのようなバカ騒ぎとは違うでしょう。

続きを読む "遊びをせんとや"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »