« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

五感のごちそう

NHKBS「アメージング ヴォイス 世界の歌声」、はまって見ています。

http://www.nhk.or.jp/amazing/index.html

気にいった歌声をみつけると、ついアマゾンで検索したりして注文(くっ。思うつぼだ)。イタリアのMINAのCDも買ってしまった(大満足できたので、OKなんだけど)。

昨日の放送もよかった。

ちょうど、河合隼雄さんのケルトめぐりの本を読んでいたこともあり、番組のなかで日本とケルト文化の共通点などにも触れられていて、なるほどな~と、感じた。

地の果て。辺境。それが、ブルターニュ地方やアイルランド、そして日本に共通するもののように思う。

ひところずっと読んでいたカナダ辺境の地(アイルランド人の移民の多い島)なども同様だろう。

そこで生まれた独自の文化。

河合さんは、日本の、世界の生き残りの方法を模索してケルトに行かれたわけだけど、その(模索の)必要性がますます高まってきているように思う。

菅さんもフランスに行っているようだし、それもとても大事なのだが、たぶん、それだけではダメなのだ。

 無意識の部分が現代社会を生きる者にとって必要な理由は、現代では意識が合理的・化学的なもので固められているからである。

かつて人々は、いまより非合理なものを入れ込んだ意識を持って生きていた。神様仏様の存在を信じ、死んだらあの世へ行くと思っていた。

そういった感情が支配する社会は、安定はするが進歩はしない。

それに対して、意識の部分をむやみに強化し、合理的に鍛えてきたのが近代から現代にかけての欧米社会であり、

その影響下にある多くの国々の社会、人々である。

無意識と意識の関係が切れてくると、人々は不安になる。人間はみな死ぬのだから、死というものがその人の人生観にどう取りこまれるかは、とても重要なことだ。

(『ケルトを巡る旅』河合隼雄 P212)

という内容を、活字という「意識」の窓から取り入れるっていうのも、なんだかおかしなはなしなんだけど、意識の外側にある無意識の世界の重要性について河合さんは何度も強調しておられるわけだ。

というわけで、無意識を意識(?)するには、「思考」をストップさせるのが手っ取り早い。

目で楽しむ。耳で楽しむ。触感で楽しむ。舌で楽しむ。香りで楽しむ。

P2011_0527_074434

母が送ってくれた、実家の庭のバラ。花弁の感じから、オールドローズ?かなと思うのだけど、きっと香りもいいんだろうな。

そういうことができるから人間なんだと思う。

「思考」をしばし、ストップ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ガーデニング三昧

クレマチスが満開です。

110526_093209

たいした手入れもしてなかったのに、愛いやつだ。

道端で失敬したラベンダー。さし芽しておいたものも、ここまで大きくなりました。

先日お花屋さんで、これぐらいの大きさのラベンダーが一鉢1000円ぐらいで売っているのをみかけ、「おっ」とほくそ笑んでしまいました。

去年買った鉢は梅雨で蒸れて枯れてしまったので、そうならないよう、十分気をつけたいと思います。

満開はもうすぐかな。楽しみです。

110526_093348

続きを読む "ガーデニング三昧"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ありがたがる」から「取り入れる」時代へ

「へうげもの」 山田芳裕 講談社文庫 を読んだ。

大学時代4年間、京都に住んで、日本史勉強して、古美術研究会で毎週寺回りしてた、って程度の基礎で、

千利休も、古田織部も知らないことはないし、ちょっと興味あるけど、わざわざ調べるほどでもない程度の「好き」なんだけど、このマンガは、「すごい」と思った。

全体から当時の時代の空気感のようなものが漂ってくる。

織田信長の時代の明るさ、南蛮文化をバンバン取り入れて、新しいものを日本に興そうという空気感。

そして、3巻でついに豊臣秀吉によって、本能寺で信長は打たれてしまった(秀吉?そう。秀吉)

亡き信長さまを弔う気持ちを旗印に掲げたいのだ!という織部が、

義弟高山右近に、南蛮では心をどのように表現するのかと相談し、

わたしたちでも教科書で見たことのある例のザビエルのハートに矢が刺さった絵を見せて、

「おー、ぐっときますなー」とばかりに合戦の旗をハート形にして見せた

というエピソードなど、ほんとかうそかわからないけど、おおお!ありそうという軽い興奮を感じた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

奈良、平安、鎌倉、室町と、日本人は自分たちの気持ちの動きや揺れ、感動を短い言葉にして、価値づけてきた。

たとえば、「わび」「数寄」「さび」。

そういうのを、NHKの紹介番組で、美術品などを見せられて、

利休の「わび」の心がここには籠っているのです~~とか言われても、

そうかな?(笑)

と、わかったような、わからないような、で終わってしまう。

つまり、床の間に飾って、ありがたがる感じ。

ちっとも自分のものになってない感じ。

学者さんが、もったいぶってこれが「数寄」だとか、なんだとか、当時の時代の空気感を横において、

今の気分でうっとりされても、正直、「へー」で終わっちゃうし、「どうでもいい知識」以上の価値にはならない。

そうじゃないものを、そんなにたくさんじゃなく、いくつか手のひらにのる程度、おなかいっぱいにならない程度、わたしはほしいと思うわけで、

このマンガは、当時の人々のギリギリな様子をきちんと押さえつつ、

「次の時代は、こうではござらぬか?」

というものを、描いて見せている、と、思った。

続きを読む "「ありがたがる」から「取り入れる」時代へ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

河合隼雄考

昨日のブログを読んで、その暗さに後で読んで自分でもびっくりしたのだけど、(たぶん読んだであろう)知人が

「今週時間ある?」と、わざわざやってきてくれることになった。

すみませんsweat02 不肖なやつで。

余談だけど、この前、柳美里さんがわが子を虐待してしまうというのでカウンセリングを受けるという番組があって、

それを撮影するってことはどうか?と思ったし、作家さん=プロがブログでそんなこと書くか?と思ったので、その番組は結局見なかったのだが。冒頭だけちらっとみた。

組織(出版社とか)にほとんど守られることなく、個人責任で世間に出ていく(「つながる」ともいう)時代になって、「さらす」のはきついなーその匙加減たるや…と、いろいろ思うのだけど、

柳さんのように、どうしてもさらさずにはいられない、(だから人は魅力を感じ、それが「売り物」になってしまう)

そのなかで、それ…お子さんを虐待してしまう思いと、お子さんの泣き叫ぶ様子をブログにアップした記事を読んで、

児相に通報した人がいた!ってのが、すごいと思った。

それは、人として正しい行為だ。何よりも。興味本位で、今日柳さん何したかな?と、有名人のプライバシーをのぞき見するより、ずっと。

で、柳さんはカウンセリングを受けることになったようだ。

そういう意味では、無意識にSOSを発信していたんだろうなー。それがキャッチできてよかった。

ブログにしてもネット全般そうなんだけど、「むき出しの個」がそこにはあって、会って話す肉体のある空間でない分、「むき出し」で、何かと気を使う一方で、

そういう効能もあって。それはよかったと思った。

それをテレビで見せることの有無はわたしにはわからないけれど、お子さんの最善の利益を願いたいな、と心から思う。

わたしの場合も、「ああー、もー」って思った方がおられて、「何とかしよう」と思ってくださる。どうもありがとう。

別の友人と話をしたとき、

修行するのもいいけど、千佳さんが楽しいって思えるようなやり方でやらないと、意味ないよねheart01

と、

うっきゃーというようなことを言ってもらえて、その方法まで!伝授していただいた。

門前の小僧の小僧、門前の小僧ぐらいには、なれるか?(やればね)

一方、先日お目にかかった親しいナースは、ひとしきりわたしの話を聴いてくださり、

「うーん。やっぱり、死ぬ勇気より生きる勇気、ですから」

と一言。

↑こーゆーの、誰だって言うんだけど、人さまの臨終に何回となく遭遇して、逝く姿も残される人たちの様子も見ている人の一言は、

ぶっちゃけ、重いのよ。

同じことでも、誰が、どんな場面で、どう言うか…なんだなー。

・・・・・・・・・・

話をしながら、気づいたのは、わたしのこの「うその話」がいやで、「本質に迫る話」を渇望する性分は、何も最近のことではない、ということだ。

河合隼雄『ケルトを巡る旅』講談社+α文庫 の中で、河合さんが新しい価値を提唱しようとするアメリカの大学の会議に呼ばれて、お話をされたらしいくだりが紹介されていた。

勇躍会議に臨んだのだが、残念ながらその会議の成り行きに私はすっかり閉口することになった。話し合う内容があまりに甘っちょろいのである。(P94)

思い切って自説を述べ、「そんな甘いことではダメだ」を意見したが、「お前、アホちゃうか」という冷たい視線を投げられたというくだりを読みながら、

ああ、何回わたしもそーゆー憂き目にあってしまったことだろう…と、数々の会議やシンポジウムを思い出した。あの、空気感。すっげーわかる。

「人類はひとつだ」とか「平和だ」と言ったところで、そんな言説はほとんど効力を持たないのである。平和はもちろん大切だ。しかし、余程掘り下げた議論をしないと意味がないのだ。

 それから二年を経ずして、アメリカとイラクの戦争が始まった。(P94)

「本当のことを言ってはいけません。ほんとうのことはみんな嫌いなんです」と、河合さんは佐野洋子さんに言ったらしいんだけど、河合さんだって、つい言っちゃうじゃん・・・と、思った。(とほほ)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

続きを読む "河合隼雄考"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

残りの50%

震災直後のショックもだんだんに薄れてきて、ふと我に返る感じの日々…のように思う。

政治のドタバタは、「ああ、やっぱりそうか」的な、それこそ(残念ながら)「想定内」のへたれ加減だから、まあ、いろんな人がそれぞれのお立場で、わいわいやってりゃいい。と思う。

気になるのは、むしろ。

最愛のこどもを2人も失っちゃった若い夫婦。

目の前でクラスメイトが流された小学生。

テレビのインタビューに答えて、「生き残った僕たちは、亡くなった人たちの分までがんばって生きなくちゃいけないんだ」って一生懸命言ってたけど、

えええ? そうなの?

と、正直思う。

たぶん、そういう気持ちがものすごく強まっている気がするんだけれど、それは重すぎる。

大好きな人を亡くした喪失感だってまだまだ癒えてないだろうに、どうして、「前向きなコメント」を? 期待しているのは誰?

日本は苦難を乗り越えてきた。だから今度もきっと立ち直る。って、わかるけど。

そんな「神話」、もういいって。

・・・・・・・・・・・・・・・・

あの日から●●さんたちの時計の針は止まったまま。

こどもを突然亡くした親の話が紹介されるとき、決まり言葉のように言われるフレーズだ。

となると、「時計の針が止まったまま」の人が、実はものすごくたくさん、この日本にいるんだろう…と思う。

その人たちは、いったい今何をしているんだろう?

自分のこの悲しみとどう付き合っているんだろう? 

考えてみれば、小説でも物語でも、愛する人を失った人の喪失感と癒しの話が世の中にはごまんとある。

正直言って、老化対策や美肌や就活より、切実な気がするんだけど、話題にはのぼらない。

それだけ、話題にしにくい話なのかもしれないけれど。でも、それだけに「切実」だとも思うのだけど。

心の傷の「癒し方」はまだ十分わかっていないんじゃないか? それどころか、「癒し方が十分わかってない」ということさえ、理解されていないんじゃないだろうか?

ってなことを、つらつらと考えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・

ですから、今生だけにかぎられた出来事に百パーセントかかわってしあうのは危険です。

四六時中、来生に役立つことのみに没頭しているのも非現実的ですが、

自分のエネルギーのうち50パーセントを今生の俗事にふり向け、

残りの50パーセントをより深遠な事柄にふり向けるのはけっこうなことです(ダライラマ『愛と非暴力』春秋社)

ダライラマ法王は仏教の教えを通して、生きていくうえで誰もが遭遇する「苦しみ」の取り除き方について説法してくれるのだけど、

医学書を読んだだけで
病人を救えようか

という先人の教えを紹介しながら、仏法もまたそれが説かれているのをただ聞くのはたやすいけれど、それを実行にうつすのは難しいと、説く。

そこが、日本の書物との違いかなと思う。読んで、理解して終わり、じゃないのよね。

「いかす」ってこと、「いかす」ってのはどういうことなんだろう?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

続きを読む "残りの50%"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ブログじゃないブログ

アナログ派の先輩エディターのMさんは、ブログっていうものをほとんど読んだことがないそうだ。

で、先日わたしのブログを読んでくださり、、

「これはブログじゃないと思った」(笑)

じゃあ、ブログってどんなんですか??(笑)

Mさんがいうブログとは、たぶん、ブログが一世を風靡していた頃の、いわゆるブログ。大きな写真がバンバン出ていて、コメントがちょっこしで、何を言いたいのかわからないけど、毎日アップされてて読むのが楽しいみたいな、そういうのをブログって思っていたんじゃないかな?と勝手に推察。

わたし自身も、成り行きでブログを始めてだいぶになるんだけど、「どういうのがブログか」と言われると、よくわからないで、

ライター時代の慣習にのっとってなんとなーくやっているわけで、そんなわたしたち二人の会話は、息子世代から見ると、相当恥ずかしい内容だった気がします。

わたし「Mさん、イマドキはもうブログじゃないですから。ツイッターですから」

Mさん「あら、そうなの! ツイッターって何?」

わたし「つぶやきです。わたしも家族間でツイッターやってますが、息子に言わせるとわたしや夫のつぶやきはツイッターじゃないんですって」

M「え?」

わたし「意味のあることを書いちゃダメなんです。わたしたちつい、用件を書いちゃうんですが、それは間違いなんですって」

M[あら、そうなのぉ!」

・・・・・・・・

スマホでなんとかっていうのもあるけど、ああ、もう全然ついていく気ないし~~。

で、わたしのブログはMさんの定義からいうとブログではないらしいのだけど、じゃあなんですか?と聞いたら、

Mさん「文学よ」

と、言われて、当方、相当ご満悦shine

Mさん、ほんと、ありがとうございます。

「文学よ」と言われた日、折しもわたしは『梁塵秘抄』を買っていて、

梁塵秘抄は、当時の流行歌である「今様」が大好きだった後白河上皇が、ぜひともこうしたものを後世に残したいと集めた歌集で、

作者はみな遊女とか白拍子とか、名もなき人ばかり。

読んでると、なんというかほっとするというか、安心するというか。

昨日の北斎→猫絵のラインから見ても、あー、わたしってほんと庶民文化の子なんだなーと、思いました。

でも、ブログのような便利なツールで、誰もが自分の好きなデザインのテンプレートに写真やなんやら貼り付けて作品を発表できるなんて、まったくもって「庶民的」だと思います。ほんと。いい時代になりました。

いい時代に、日本のような(一応)ヘイワな国で生きることができて、とりあえずよかった・・ということにしておきましょう。

先日お花屋さんで買った「季節の花」。つぼみだった芍薬が開花しました。

110521_103417

で、こちらはベランダに咲いたヒューケラの花と紫の小さな花(名前失念)の切り花。

110521_103703

続きを読む "ブログじゃないブログ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

北斎ラブ

好みもあると思うのだけど、今年の大河はどうにも「ううむ~」で、回を追うごとに最後まで見続ける自信がなくなってきました。

NHKでいうなら、「江」より「へいげもの」のほうがおもしろいような気がする。ってわけで、さっそくマンガも買ったのだけど、アマゾンを見ていたら、「へうげもの」を買う人はこういう本も買ってますってところに、「あっ」というマンガが紹介されていました。

(くっ。アマゾンの思うツボだ)

猫絵十兵衛 永尾まる 少年画報社

110520_134359

江戸物!猫もの!ってことで、ファンも多いみたいです。もちろん、期待にたがわぬおもしろさ。おすすめです。

江戸物のマンガと言えば、今は亡き杉浦日向子さんのものがなつかしいのだけど、とりわけ、葛飾北斎と娘の日常を描いたマンガを「猫絵十兵衛」を読みながら思い出しました。

で、ちょうどそのタイミングでNHKBS「在外秘宝」でイスラエルの美術館に収められている北斎コレクションの紹介がありました。

北斎ってのはすごい絵描きだったというのは、わかっていたつもりでしたが、この番組で「思った以上にすごかった」と再認識。

番組を見てびっくりしたことを以下につらつら書いてみます。

・先入観なしに、東洋の端っこ見たこともない日本の浮世絵の美しさ、斬新さを、一目で見抜いたフランス印象派の画家たちの目の確かさと、絵のためならなんでも取り入れる貪欲さ。

・印象派の画家たちを脱帽させた北斎、写楽など江戸の絵師たちの画力。

・ポーランドのワイダ監督が指摘していたのだけど、浮世絵は「庶民のために描かれたもの。これを見た時に、世界が開けた」というのは、特に印象的だった。

言われてみればヨーロッパの絵画は、「王様や貴族のため」の芸術であって、描く対象もスタンスも日本とは全然違う。

番組で紹介されていた、ルノワールが構図をまねたという北斎の絵、江戸の庶民が富士見台から富士山を見ているという絵は、ほんと、どのかで、平和で、豊かだなーと、改めて思った。

・北斎は「世界で最も有名な日本人」の一人であること。

富士山が好きな外国人は、多いようだけど、それは、単に富士山が日本一高いから好きなんじゃなくて、たぶん、葛飾北斎が何枚も描いた山だから、富士山をありがたがっている…ような気がする。

現物の富士山を見る前に、どこかで北斎の富士山を見るとかしていて、富士山が印象に残っており、日本に来たときに「おお、あれね!」という感じで再確認する・・・そんな山のように思う。

・本当に必要なもの、残るものは、時間も空間も超えて、残るんだなー!と、痛感。

続きを読む "北斎ラブ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

心を訓練する八つの詩頌

過去に行った行為を知りたいならば、現在の己れの身体を見よ。将来、己れにふりかかることを知りたいならば、現在の己れの心の中を見よ。

私たちの現在の状況や身体は過去の行為によって形成され、将来の幸福や苦は、現在の私たちの手中にあるというのが仏教の行為と果報の考え方です。(ダライ・ラマ『愛と非暴力』P140)

知性(サットバ、覚)とプルシャ(あるいはアートマン)はまったく別ものであり、知性がプル者のために存在するのに対して、プルシャはそれ自身のために存在する。これを峻別しないところに経験のすべてがあるのであって、この区別にサンヤマを行うことによって、プルシャの知があらわれる。(P300 スワミ・サッチダーナンダ『インテグラル・ヨーガ』)

テレビを見たり、雑誌を読んだり、頭のいい人たちの言っていることをどれだけたくさん聞いても、今のわたしがほしいと思っている情報は得られないような気がしている。

たぶん、それは、ダライ・ラマ法王が般若心経という短いお経に何が書いてあるかを解説した本を読んだ時からのような気がする。

「あああ、やっぱり」みたいな。

般若心経には、周知の通り、最後に「ギャティ ギャティ ハラギャティ ハラソウギャティ ボージーソワカ」というマントラがあるのだけど、

それは、空性の意味を段階を踏んで修行することによって、開ける世界であるというわけだ(P128 ダライ・ラマ同書)

「単に本を読んだからって、習得できるわけじゃないのねー!」

本質をとらえた短い短いことばを解釈し、考え、実践するだけで一生を終えてしまう人も多いのだ。

知識とは読んだ本の多さとか、取り入れた知識の多さとか、人と比べてどうだとか、そういうことではないような気がする。

欧米など西洋から手に入れる知識は、ものすごく一般的で、親切で、読めばわかる、マニュアル的な、ハウツー的な要素が大きい。

で、その通りやっていくと、それなりになれるし、一般社会に適応できる人になれる。

というか、そういう社会をあらかじめ設定してるので、その型に入る人にするべく教育が施されるというわけだ。

もちろん、そのおかげで恩恵をたくさん受けたのは間違いないし、こういうときはこうすればいいんだよな、とわずかながらもある経験知で、次の方策を考えることもできる。

でもそれは、いってみれば思考のパターンの一つでしかない気がする。

ヨーガについては、チベット仏教の関係で手に入れて読んだりしているのだけど、ある意味、すごく「不親切」!ヨーガに極めた人から見れば、かなり読みやすいのに!って言われそうですが。

やっぱり、ものごとのとらえ方、考え方が違うってことなんでしょうね。

で、今のわたしに必要なのは、そっちのような気がする。

・・・・・・・・・・・・・・・・

「ダライ・ラマ 愛と非暴力」より

心を訓練する八つの詩頌 

続きを読む "心を訓練する八つの詩頌"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

古本

先日まで読んでいたダライ・ラマ法王の「般若心経」は、古本で購入したものでした。

110514_123532

が、そんなことをまったく感じさせない新しさで、カバーもばっちり、法王様の写真の載った帯だってそのままついているというすばらしさでした(帯はしおりにしちゃってますが)。

訳者の宮坂さんについて、なにげにつらつら調べていると、空海研究で有名なお父さんがおられ(梅原猛さんと本を書いたりされている)、そのご縁でダライ・ラマとは「おじさん」のような親しい間柄なんだそう。

核心に触れる前に、その周囲をぐるぐると徘徊して、様子をうかがうってのがわたしの昔っからのくせで、

なんとなーく、宮坂さんに興味を持ち、アマゾン経由で古本を2冊ゲットしました。

110514_123617

四季社「ダライ・ラマ ヒューマン・バリュー」と人文書院 宮坂宥洪著「インド留学僧の記」。とりわけ、すでに絶版となっている「インド留学僧~」は、これから読むのが楽しみshine

あわせて、衝動買いしてしまったのが、これ↓

110514_123703

続きを読む "古本"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

母親が死ぬということ

長期の入院を2回もすると、3回目はもしかするともう自宅に帰れないかもしれない…という思いを、否応なく持ってしまうものだ。

大好きな萩尾望都さんの最近のマンガ「ここではないどこか」シリーズの3巻収録の「春の小川」も、そうした死んだ母と息子の話で、何度読んでも泣けてしまう(ちなみに1巻の最後の話もそういう感じ)。

余談だけど、一方で、コンプレックスいっぱいの女の子が好きな男の子の前でどぎまぎしてしまう話などが混ざっていて、

長年、第一線でなんでも描いてきた巨匠が、いよいよ円熟期を迎え、なんでもできる軽いタッチで、いろいろなお話をモザイク螺旋のように組み合わせて、

空間も時空すらこえて、縦横無尽に物語ワールドを展開させているのを見せてくれているようだ。

「はあー、プロってすげー!」と、ありがたく楽しませていただいています。

で、「母親の死」について。

数年前、息子の高校の卒業式で、同級生のほとんどが浪人という進路が決まっている状態で、まあ、母たちは華やかな格好はしているものの、内心複雑な思いで彼らを見送った。

その中で小学校時代からずっと同じようにやってきた仲良しの某くんのママが、

「××くんのお母さん、彼が受験中に病気亡くなって。彼はお母さんのために、医学部に進学したのよね。だからわたし息子に言っちゃった。わたしが死んだら医学部、入ってくれる?って」

母の死が契機で、悲しみを乗り越えて、医学部にいくなり、進路が明確になり、こどもが「ダン!」と成長する話はわたしの周囲でもこれにとどまらず、いくつか聞いている。

××くんのママじゃないけど、自分が死がそういう重い価値を持つものになるのなら、すばらしいなと、思う。そういうことになるなら、死ぬのも悪くないなと思う。

そう。だらだらと生きて、いつもこどもに甘くなっちゃって、こどももいつまでも甘ったれで、ダメなのはお互いわかっているのに、どうにもならずにずるずる年ばかり重ねてしまうよりは、ずっと。

・・・・・・・

続きを読む "母親が死ぬということ"

| | コメント (3) | トラックバック (0)

子どものこと・子どもたちのこと

今日で東日本大震災から2カ月がたったという。わたしの退院からも1カ月ちょっとだ。

この間、ちらちらと見るテレビの情報から、被災したこどもたちの様子を知った。

津波で母親を亡くし、形見の母親の車のキーを大事そうに見せる小学生。

津波で母親と姉を亡くし、「今はそんなことをしている場合じゃないだろう」と大好きな野球をあきらめて、「高校だけはさすがにいくよ」と級友に話す高校生。

とりわけ、息子が高校球児だっただけに、野球を断念しなくちゃいけないかもしれない彼らの話は、切なかった。

それに、無事に大会を行えたのは高校野球ぐらいで、他のインターハイの春の大会などは軒並み「自粛」ってことで取りやめになっているように聞いている。

トコロさんの番組でも西日本の新体操をがんばっている高校生たちが中止の連絡を受けて泣き崩れる様子が放映されていた。

「よく考えてみれば、今は大会じゃないでしょう?もっとほかにやることがあると思うよ」というコーチの諭しはその通りなんだけど、ああーん!!と、人生の先輩は思う。

・・・・・・・・・・・・・

昨日、大学3年の息子が「バイクがほしいんです」と言ってきた。むう…。

「就活も大変でしょう? 勉強だってそんなにやっているように思えない。ダイビングとかバイクとか、学生生活を楽しむアイテムをそろえているだけにしか見えない」と、わたし。

「あまり好きな考え方じゃないけど、目的(自分は何がやりたいのか=仕事さがし)があって、行くところを選んで、そこに向けてどうするか考えるものでしょう。

バイクやダイビングも目的に使う手段のひとつって考えるぐらいにならなきゃ」

骨の髄までしみ込んだ、いわゆる一般的なマネジメント論。言いながら最近特に「むう?」と思っているアメリカ的思考を感じて、すごくいやになってくる。

しかし、間違ってはいない気がする。内容の中には生きていくうえで、大事なことも入っているし、この場合のわたしの目的(息子を命の危険にさらすようなバイクに乗せたくない。じゃあ免許取らすなよってことだけど、そこは複雑な母ゴコロ)にもかなっている。

すかした中高一貫教育の学校を出て、大学でも「周囲がこどもに見える」的なすかした発言をする「都会っ子」(?)は、高校3年の春まで親の反対を押し切って野球を続けた。

ある日突然、お母さんもお姉ちゃんもいなくなって、家もなくして、お父さんと掘立小屋を建てて、そこに暮らしながら「野球は無理だな」って思っている年下の子もいるんだよ!!

おまえは何だ!

(息子)何したいかわからない。周囲は会社研究なんかしないし 

← じゃあ、会社研究をやるようなコミュニティに積極的に入っていけよ。いまどきいくらでもあるでしょうが。

(息子)このままじゃあ、先生かな?・・・

← わたしが生徒なら、お前のようなへたれにだけは習いたくないワ

(息子)そもそも教育実習で夏休み、全部つぶれるのに、みんな平気なんだよ~

← はあ?

(息子)震災の影響で休み減っちゃったし。どうして減るのか説明もないから全然わからない

ピンク部分は、わたしの独白でほとんど口にしなかったのだけど、これ、こんな彼氏だったら、やっぱりいやだよな~。あ、母だから本音言ってるのか。

以前、山猫先生の占いでも息子は「いいところがわかりづらい」「努力がみえづらい」と言われていて、表面だけ見て厳しくするのは気をつけた方がいいとアドバイスを受けているので、言いたい気持ちをぐぐっとこらえたけれど、これだけは言った。

続きを読む "子どものこと・子どもたちのこと"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

仏教について考えてみる

護国寺で行われたというダライ・ラマ法王の大震災の慰霊の法要は、できれば行きたかった。

が、家族の許可が下りず、断念。仕方なく、紹介されていた「地神と四大(この世界を構成する4つの元素)の女神に対する供養文(sa bdag 'byung bzhi'i lha mor gsol mchod)」をプリントアウトして毎朝読みあげ、「もうこれ以上恐いことしないでね」と、女神さまにお願いしている。

http://www.tibethouse.jp/news_release/2011/110405_sa-bdag-byung-bzhii-lha-mor-gsol-mchod.html

彼岸寺という「超宗派仏教徒によるインターネット寺院」に、当日の模様が紹介されていたので、紹介します。

http://www.higan.net/news/2011/05/post-9.html

同じ記事ですが、こちらはきれいな写真付き。

http://www.hasedera.net/blog/2011/04/post_275.html#more

直接大変な被害を受けたわけではないけれど、ぐらぐら揺れた時、わたしは入院していたこともあって、地震後の数日はニュースを見ては泣いてばかりいた。

わたしをはじめ多くの人は「応援する側」「義捐金を送る側」であるのだけど、だからといってまったく傷ついてないかというと、それは違うような気がする。

地震のあった日も、電車が止まってしまい、家まで歩いて帰った人が何人もいたというし、被害の大きさを映像で見て、平気な人は少ないと思う。

グローバル規模で見れば、「日本が被災した」と言われるわけで、他国がお悔やみを述べ、応援してくれるのを見て、ありがたいなと思うのは「被災した国」の人だからだ。

法王様が日程を調整して無理して護国寺に来られると聞き、行きたかったのは、

「いっしょに東北の方たちを励ましたい。慰霊したい」という純粋な気持ちというよりは、

「わたしも励ましてもらいたい。お話を聴いて、魂を癒したい」という気持ちのほうが強かったと、正直に言おう。

私たち仏教徒には、何らかの逆境に立たされた場合、その逆境に立ったというその状況を、自分が悟りにいたるための道の一つとする修行の方法があります。ひどい逆境という困難は「もうすでに起きてしまった」わけですから、それを無くすことはできないのです。ですから、悲しいことが起こったと、ただ悲しんで心配するだけでは何の役にも立ちません。このことについて、

シャーンティデーヴァ(漢訳名=寂天)は『入菩薩行論』の中で、このように述べています。

もし何事かが起きて、それを何とかする方法があるならば、その方法・対策を講じる努力をするべきである。そしてそれを何とかする方法が無いのであるならば、それより悲しむ必要はないのである

このシャーンティデーヴァの教え、アドバイスは非常に科学的、現実的で毎日の日常生活に即した教えとなっていると私は思います。ですから、皆さま方もそのように考えていただきたいと思います。起きてしまったことはもう取り返しがつかないのです。しかしながら、落胆し、全く勇気をなくしてしまうというのではなく、「これから先」を見つめて、再建・復興のために出来る限りの努力をしていっていただきたいのです。

・・・・・・・・・・・・・・・

私たちは、チベットという自分の国を失って以来、たくさんの困難な状況に直面してきました。
しかしながら、私たちは、そのような困難な状況の中において、自分自身の精神というものをますます高めてくることが出来たのではないかと思います。そのような困難な時代を過ごす中で、自分の内なる心の力というものを、より強く高めることが出来てきたのではないかと思うのです。

ですから、(被災された)皆さま方は、非常に困難な状況に直面しておられますが、そのような悲劇に打ち負かされることなく、現実の状況を正しく理解するということによって、自分自身の状況への対処の仕方をより強めていってほしいのです。それによって、皆さま方の心の内なる力というものをますます高めていくことが出来ると思います。

心の内なる力をますます高める・・・それをするには、どうしたらいいんだろう?と、思う次第。

多分、困難な状況に直面したら内なる力が高まるのではなく、困難な状況下において行うことの結果、精神を高めることができるのだと思う。

では、何をしたらいい?

続きを読む "仏教について考えてみる"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

これからどうなるんだろう?

毎日新聞に載っていた、原発の全国マップがなかなかわかりやすくてよかったので、こちらで紹介。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110507-00000034-maip-soci.view-000

54基ある原発のうち13基は福井県にあって、そのほか、原発をリアルに感じる地域は、新潟(7基)、福島(10基)なのだな、と、思った。

産経新聞から配信された記事からうかがえる、浜岡原発停止要請で、複雑な心境の地元の様子。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110508-00000015-san-l22

市長によると、平成23年度の市の一般会計当初予算約167億円のうち、原発の固定資産税が約45億円、国庫支出金が約20億円となっているなど、予算の42・4%が原発関連と依存率が高いからだ。

 また、現在、市内には中部電力の社員や協力会社合わせて約1200人が居住しており、離れることになれば税収の減少も予想される。石原市長は「地元経済は大変厳しい状況に陥ると考えている」苦しい胸の内を明かした。


不安の種の原発を停止する方向というのは、総論では悪いことではないと思うのだけど、原発を受け入れてきた地元にしてみれば、「えええー。今まで推進してきたのは何だったの?」って気持ちは、正直なところだろうと思う。

続きを読む "これからどうなるんだろう?"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ボランティアはボランティア

内閣府が開設している官民連携支援の窓口、「助けあいジャパン」というサイトに、室長の湯浅さんの下記のようなコメントが掲載されていました。

http://tasukeaijapan.jp/?cat=14&p=2722

外からのボランティア(支援)は、いつか去る。そのときに、地元にたくさんの役割が残っているのが良いボランティア(支援)だろう。地元にたくさんの役割(雇用)が残るボランティア(支援)をしたい。その意味で、ボランティア(支援)には、被災者・被災者コミュニティに対して、「下から、後ろから」という立ち位置を取るべきだと思う。

今回、失業した被災者は多い。その人たちの「自助」を引き出す「共助(ボランティア/支えあい)」「公助(公的雇用)」が望まれる。その意味で、「自助」と「公助」は対立するものではない。

貧困者支援でNPO活動を続けてこられた湯浅さんらしい着眼点だと思いました。

人は誰でも自分の生きている意味や、やりがいや、自己実現を自分に問います。ボランティアはお金が介在しないだけによりクリアに「何のために?」という答えを求めがちです。

「他人のため」にやっていることなのだけど、邪念をひとつもなくして、滅私で100%「他人のため」の活動ができる人は、そうそういないように思います。

下手くそなカウンセラーが、クライアントと「共依存」の関係になってしまう例もあるように、支援を受ける人あっての「支援者」なので、

自分の生きがいや生きる意味を見出したいがために、「支援を受ける人」をつくってしまう「支援者」も中には出てきてしまうのです。

「支援を受ける人」がいなくなると、自分の存在意義までなくなってしまいそうで、それが怖くて、いつまでも「支援を受ける人」であるように「支援」してしまう…こわーい。

そういうのは多分、「正しいボランティア」じゃないのだろうと思います。

続きを読む "ボランティアはボランティア"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

文化が違う

オサマビンラディン殺害のニュースを、アメリカ国民は喝采で持って迎えたというニュースは、当事者からは遠いところにいる日本の一主婦から見ると、少々違和感が残ってしまう。

人を殺して、「よっしゃ」みたいなの、どうなんだろう? 生け捕りは無理だったのかなあ。

法の下で正当に裁くってほうが、西洋人っぽくていいと思うのだけどなあ。

ホワイトハウスが出してきた作戦執行時のオバマ大統領たちの表情を撮ったわざとらしい写真を見ても、やっぱりそう思う。

でもって、作戦名は「ジェロニモ」。

これには、先住民のアパッチ族が抗議したらしい。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110505-00000261-sph-soci

アメリカ大陸にイギリス人などの移民がやってくる前から住んでいた民族の英雄の名前を、ビン・ラディン殺害の作戦名にするっていう神経は、ちょっとよくわからない。

そもそも、もともと住んでいたところを追われれて、攻撃を受けたのは先住民族だよ。

侵略した人たちは強かったかもしれないけれど、正しくはなかったと思う。

そのうえ、またぞろ自分たちで定めた「悪」の親玉に、自分たちが侵略した民族の英雄の名をつける。

ランダムに選んだとか言ってるけど、白人が、昔の話と今回の話を重ね合わせて考えているととられても仕方がないと思う。

イスラム諸国の反応もまた複雑だという。そうだと思う。みんながみんなアメリカ大好きってわけじゃないし、アルカイダのしたことは認められないが、だからといって、アメリカのやり方が全部正しいとも言い切れないって、内心思っている人はいると思う。

鈍感すぎる・・・。

「こういうことをされたら、相手はどんなふうに思うか」とか、考えたことないんじゃないかなあ。

録画しておいたバーバラ・ストライサンドのライブを見ていたら、ちょうど「マイウエイ」を歌っているところだった。

「これがわたしの道なんだ」って高らかに歌い上げる様子を見ながら、

ああー、これがアメリカ人なんだなあー!!

と、つくづくと思った。

ふてぶてしい、ズケズケ感。「感情の機微」とか「ひだ」とか、そういうことばは彼らには無縁な感じ。

「多様性を認めて」という考え方を教えてくれたのも、多分、欧米の思想だったと思う。

ノーマライゼーション、ダイバーシティ…等々

そういう思想に初めて出会ったときは、新鮮で、わくわくした。

だけど、最近気づいた。言ってるけど、やってないじゃん(笑)

続きを読む "文化が違う"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

へたれはへたれなりに

すっかり花弁を落としたチューリップを引っこ抜き、球根にすべく日陰に干した。

で、あいた鉢を小さな菜園にした。バジルとワケギと、ロケット。

110505_084445

で、初心者用のプチトマト。うまくいけば、わたしの食べる分ぐらいはこれでまかなえるはず。収穫が楽しみですnote

110505_084519

去年買ったクレマチスも開花しました。放ったらかしだったけど、ちゃんと育ってくれて少しびっくり。花の色は…一般的なブルーを期待して買ったのだけど、スゴイ色で、その色は今年も健在でした。

110505_084419

続きを読む "へたれはへたれなりに"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地方自治について考えてみた

GWにハゴロモジャスミンが満開になった。

110501_103744

白くてかわいい花弁に、いい香りのごほうび。

合わせて、夫がパン焼き器で生地をつくり、ピザを焼いてくれた。

110501_191313

うまかったですぅ~~。

昨日のNHKのドキュメンタリーを見て、つらつら考えたこと。

あの番組は「地方自治」はどうあるべきか?を考えるときに、とてもよい事例になるのではないだろうか。

住んでいる人たちの願い(この土地で暮らしたい)を彼らの意志を尊重したかたちで実現するには、馬場中山地区のやり方はかなりいいモデルになると思う。

住んでいる人たちが集まって、企画したやり方を行政が支援する。

「待ってられない」と、自分たちの力で道をつくり、仮設住宅をつくろうとする彼らのスピードを尊重するべきだし、

「言うことを聞かず勝手にやった」からと、一切の支援をしないのではなく、

彼らが道をつくった分、住宅を建てた分の経費をお金の形で支給するってのが役所の仕事じゃないかと思う。

続きを読む "地方自治について考えてみた"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

表現のヒント

たまたま見たNHKのドキュメンタリー。

被災地 再起への記録

http://www.nhk.or.jp/special/pdf/nhk_hisaiti.pdf

「孤立集落 どっこい生きる 宮城歌津半島」を、泣きながら見たのだけど、つきつけられた事実の力にただただ圧倒されました。

震災を境に、わたしたちの心理は大きく変わったんじゃないかと思っています。それに合う表現、情報の出し方が求められるようになると、直感しています。

求められる、というよりは、その必要性がある、って感じかな。

お茶の間の「見ている人」を想定して、お涙ちょうだいチックな演出をする…というのは、昔からの手法でやりがちだし、簡単なんだけど、表現者としては二流。

ありきたりなお約束の表現じゃない表現を追求するのが一流であり、プロの表現者の仕事だろうと思っています。

で、くだんのドキュメンタリーは、3月中旬震災直後に孤立化した馬場集落にたどり着いたNHK取材班が現地密着で追った、復興の日々です。

過度な演出はほとんどなくて、ただただ淡々と出来事を追うだけだし、ナレーションも邪魔にならない程度。

うるさい音楽も入らないから、逆にリアルが迫ってきました。

行政なんかあてにしないと言い切る区長さん。自身も身うちを何人も亡くしながら、村民のために自主避難所の運営にあたる姿には迫力があります。

がれきからまだ使えそうな調味料や米を拾ってくる女たち。小屋を建てるための木材を運ぶ男たち。

行政を待っていたら仮設住宅がいつになるかわからないと、自分たちで高台の土地に仮設住宅を建てようと計画を立てる住民のみなさん。

「水道が持ってこれない」と許可を渋る行政と、

一方で道路建設のためにボランティアで現地の測量にやってきた、福井県の測量技師の対比は、かなり痛快でした。

「これを求めています」とSOSを発信すれば、ものが届き、

がれきで道路が寸断していても、食料と燃料を運んできてくれる人がいました。

馬場中山地区のホームページ

http://c.fc2.com/m.php?_mfc2u=http%3A%2F%2Fbabanakayama.client.jp

区長さんは、そんなボランティアの人たちの支援を見て、この力がきっと自分たちを支えてくれると確信を持つことができたんじゃないかと思います。

それと、「何がなんでも、この地域を守る」という強い責任感。それが住民に伝わって、「ここに残りたい」「ここを残したい」「ここで暮らしたい」という思いになっているのでしょう。

誇り高き、馬場中山地区の人たち。

連日「カネで解決」的な補償の話しかできていない国の議論と比べると、

行政まかせに見切りをつけて、自力でがんばろうとしている住民と、

それを応援しようとしている各地のボランティアの交流が、やっぱり際立ちます。

瓦礫のはらになっているんだけど、静かな時の海は本当に美しいなと、映像を見ながら思いました。

そんな海の恵みを受けて、やっぱりここで、みんなと暮らしたいという普通の当たり前の思い。

そんな思いを叶えるために、道をつくるための舗装用の砂利が届き、温泉が届き、プレハブ用の建材が届き、専門家がボランティアにやってくる。

く~~、かっこいい~。

やってもらうのを待ってるのでも、文句言うのでもなく、自力でやってく。

「人ってすげえな」と、思いました。

「表現」もまた、「伝える」だけでも、行政批判だけでもダメの段階にきた気がしています。

続きを読む "表現のヒント"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »